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 Diary 2003・1月25日(SAT.)

気になること

 歴史的かなづかひで日記を書くやうになつてから、ほぼ 3 週間経つた。以前書いてゐた事もあつてか、歴史的かなづかひ自体はそれほど難しくない。まア、間違ひも結構あるかもしれませんが。しかし、歴史的かなづかひでワープロ入力するのが、面倒で閉口する。例へば、この「例へば」だが、まづ「tatoeba」と入力し、画面に「たとえば」と出て、それを漢字変換して「例えば」とする。その「例えば」の中から「え」を削除して「へ」と入れ直さなければ、ならない。凄く、面倒だ。かうなると、さらに気になることが出てくる。それは、「やまとことば」を漢字で表すことの是非である。

 高島俊男は、「やまとことば(和語)」を漢字で書き分ける事の愚かさを説く。例へば(ああ! 面倒くさい!)、「とる」といふ言葉を、「採る」「撮る」「録る」「取る」「摂る」……などと書き分けるのは愚かである。「とる」とは「やまとことば」、つまり日本語であり、いくつかの意味に用ゐられやうと、「とる」は「とる」である。英語の「take」が、いくつかの意味に用ゐられやうと、「take」なのと同じだ。モノをとる意味の「take」と、時間がかかる意味の「take」を書き分けたりしないでせう。それと同じ事だ。と、高島俊男はいふわけです。

 私はこれは、しごく真当な意見だと思ふ。思ふが、やはり書き分けてしまう。その理由は、その方が分かりやすいと思ふからだ。また、それとも関連するが、ところどころに漢字を入れる事によつて、文章が見た目の単調さから救はれると思ふからだ。このやうな考へもあつて、「ううむ、だうすればよいのか…ま、いいか」と開き直り、従来通り「やまとことば」を漢字で書き分けてきたのだが、歴史的かなづかひで入力するやうになると、少し情勢が変わつてきた。例へば、この「例へば」だが、「たとへば」といふやうに、漢字を交へなければ、上記のやうな煩雑なことをしなくてよいのだ。これは楽だ。漢字をなるべく使わないやうにすればよいのだ。よし、これからは「やまとことば」は「やまとことば」のままで書かう。……が、さうなると、やはり文がよみにくくなるんぢやないか? それに、どのことばが「やまとことば」なのか、わかるだらうか……。

 あア、なんだかせなかがゾクゾクします。かぜをひいたかも。

小川顕太郎 Original: 2003;