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 Diary 2003・1月23日(THU.)

「演歌」のススメ

 藍川由美著『「演歌」のススメ(文春新書)を、題名に惹かれて購入、読了した。なかなか面白かつたのだが、この本で「演歌」といはれてゐるのは、我々「演歌サバイバーズ」の言つてゐる、60 年代の後半から 70 年代の前半にかけて成立したジャンルとしての「演歌」ではなく、「日本人の民族的美感に適う音楽形式」として創られた歌全般のことだ。とはいへ、我々「演歌サバイバーズ」も、本来の目的は、日本の魂(こころ)を伝へる、といふ事だし、そのために常に「日本の魂(こころ)」とは何か? を問ひつつ、軍歌や民謡を歌つたりもしてゐる訳なので、このやうな本から学ぶ事は多い。以下簡単に、この本から、我々にとつて有益だと思はれる事柄を要約してみやう。

 話は明治時代から始まる。西洋列強の圧力により國をこじ開けられたショックからか、明治政府は日本の児童の音楽教育を、西洋音楽至上主義にて始める事にした。実はこの時に明治政府(正確には明治 12 年に創設された音楽取調掛)が採つた根拠のない「音楽では管弦楽曲を頂点とする」といふ方針が、現在に至るまでの我々日本人の西洋音楽・クラシックコンプレックスに繋がつてゐるといふ。さすがに、クラシックの凋落があまりにも明らかな現在にをいては、あまりこのやうなクラシック音楽コンプレックスはないとは思ふものの、著者はクラシックの世界の人なので(ソプラノ歌手)、やはり未だに、歌曲よりオペラの方が、ピアノ曲よりピアノ協奏曲や交響曲の方が優れてゐる、といふ偏見に出会うさうだ。それに、日本の音楽教育は、未だに、音楽にはメロディー・リズム・ハーモニーの三要素が必要、と教へてゐるといふ。もちろん、この 3 要素を備へた音楽など、西洋音楽の中でも特殊である。それなのに、日本の歌はハーモニが希薄だから遅れてゐる、と思つてゐる人がまだまだゐるさうだ。

 考へてみれば、現在の「演歌」の凋落ぶりこそ、西洋音楽コンプレックスの顕れではなからうか。我々は、急いで日本の魂(こころ)を取り戻さなくてはならない。

 ところで、西洋音楽至上主義で教育を始めた明治政府だが、すぐに行き詰まつてしまう。ここでいふ西洋音楽至上主義とは、具体的には 7 音階による音楽教育の事なのだけれど、本来日本の音楽は 5 音階である。といふか、そもそも日本の音楽を、西洋の音楽理論である 12 平均律に当てはめる事じたい無理があるのであつて、無理矢理 12 平均律にあてはめると、日本の音楽は 5 音階になる、といふだけの話なのだが、このやうな無理をずつとしてきたのだから、このまま話を進めるしかない。昔は、5 音階より 7 音階の方が進んでゐる、といふ妄言がまかり通つてゐたさうだ。

 で、7 音階による音楽教育を進めやうとしたのだが、どうも人々に受け入れられない。人々は西洋の音楽を歌ふにしても、5 音階で出来てゐるヨーロッパの民謡(「蛍」など)を、好んで歌つた。そこで、西洋の 7 音階と日本の 5 音階を折衷した「ヨナ抜き音階」(第 4 音と第 7 音を抜いて、7 音を 5 音にする)といふのが生まれた訳だが、これが文部省による「唱歌」の定型となつていく。ちなみに、ヨナ抜き音階にも長音階と短音階があつて、政府が推奨したのは長音階の方。長音階の方が明るく勇壮なので、こちらを推進したのだとか。政府によつて「柔弱憂鬱の資質」「無力多病なる気骨」が形成されると忌避された短音階の方が、人々には愛されてゐたらしいのだが。

 ああ! 時間がない! 仕事に行かなくては。まア、この続きは明日にでも。

小川顕太郎 Original: 2003;