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 Diary 2003・4月13日(SAT.)

平和ボケ

「平和ボケ」といふ言葉がありますね。今回の米国のイラク侵攻に対する我が国の対応をめぐつての議論で、またしきりに使はれてゐるやうですが、なんか虚しいですよね、この言葉。私はさう思つて、近頃はとんとこの言葉を使はないやうになりました。その理由を、ちよつと書いてみます。

 まづ、最も一般的に使はれてゐるのが、いはゆる左側の反戦平和勢力に対する揶揄の言葉として、でせう。確かに、戦争は悪だから何が何でも反対! 話し合ひで全て解決すべきだ! といふ意見は、「平和ボケ」と言はれても仕方のない幼稚さがあります。世の中、そんなもんぢやないのは、まともな大人なら分かる事でせう。しかし、「反戦平和」といふ主張は、実はそんな単純なものではない。それは、そもそも「反戦平和」といふ戦略を考へたのは、保守本流の吉田茂(とその仲間達)であつた、といふ事実を思ひ起こせばわかるでせう。吉田茂は、押しつけられた平和憲法を逆に利用して、軍事費を米国に負担させ、日本はひたすら経済成長に邁進して国力をつける、といふ戦略を考へ、実行しました。実際、戦争に負けて国内はボロボロになり、平和憲法をはじめ様々な足枷を嵌められて身動きのできない当時の日本にとつて、これはなかなかにしたたかな戦略であつたと思ひます。つまり、「平和ボケ」どころか、実にリアルな、現実を厳しくみつめた戦略であつたと。では、この戦略は、今でも十分にリアルなのでせうか。

 それは、現在の日本の立場をどう解するか、によつて変はつてきます。現在の日本を、米国の属国に過ぎない、と考へれば、これは十分リアルな戦略と言へます。そして、この立場に立てば、米国と日本は同格だと考へ、米国を支持すべきだ! と唱へる親米保守(小林よしのりの言ふところの『ポチ保守』)こそ、「平和ボケ」してゐる、と言へるのです。何故なら、今や米国は世界中の嫌はれ者で、反米感情が至る所に燻つてゐますが、その米国を積極的に支持することは、自らもその反米感情の対象になる、といふことですから。自らを守る力もないくせに、そんな危機に自らを追ひ込むなんて! と、こう言へば、親米保守の人たちは、いざとなつたら米国が守つてくれる、そのための日米同盟ぢやないか、と言ふかもしれません。しかし、それこそ「平和ボケ」した考へではないでせうか。いざといふ時に、米国が守つてくれる保証なんてどこにも有りません。といふより、いざといふ時には、米国が積極的に日本を潰しにかかる、と考へておいた方が良いでせう。それがリアルな考へといふものです。それは、現在進行しつつあるイラク侵攻を見ても判るでせう。イラクのサダム・フセイン政権を、イランに対抗させるために支へてきたのは米国です。アフガンのタリバン政権だつてさうでした(こちらは対ソ連)。つまり米国は、自らに都合のよい時は支へてくれますが、都合が悪くなると、容赦なく潰しにかかります。まあ、これが米国の「リアル」な考へなのでせう。この「リアル」な考へを共有せずに、来る北朝鮮有事のためにも米国支持を! とか、文明世界を守るために対テロ戦争に協力を! と叫ぶのは、全く「平和ボケ」した幼稚な考へとしか、言いやうがないでせう。

 しかし……このやうに自説を展開してきて、やはり虚しさは隠しきれません。所詮、我々は全て「平和ボケ」してゐるのではないでせうか。日々ゲリラ戦を闘ひ抜いてゐる中東の人たちならともかく、敗戦以来、ほぼ戦争に無関係で半世紀近くを生活してきた我々日本人は。そのやうな我々が、自分の論敵たちに向かつて、お互ひ「平和ボケ」と罵りあつてゐる、といふのは、滑稽を通り越して、やはり虚しい。

 私は、「平和ボケ」といふ言葉を安易に使つてゐる人たちを信用しません。

小川顕太郎 Original:2003-Apr-15;