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 Diary 2002・9月28日(SAT.)

性同一性障害について

 私は 2000 年 7 月 30 日の日記で、「性同一性障害」について書いた。その日記で私は、「性同一性障害」という概念は「分からない」「間違っているように思う」と書いた。その理由は、私は「男らしさ」「女らしさ」というのは歴史的に伝統・習慣として形成されたものであり、科学的・生物学的な根拠などない、と考えていたからだ。

「性同一性障害」とは、精神は男(女)で身体は女(男)、という人の事を指すという。身体に男女の別があること、これはまあ、半陰陽などの例外はあるものの、納得できる。はっきり区別があるだろう。が、精神に男女の別など「はっきり」あるものだろうか? それは社会的に後から刷り込まれたものじゃないのか?

「性同一性障害者」といえども、狼少年・少女じゃない限り、社会的な刷り込みから自由な訳がない。男(女)としての身体を持ってうまれ、男(女)として育てられ(刷り込みを受け)て、でも精神は女(男)、という状態などあり得る訳がない、と私は思ったのだ。そのような事態は想像しがたい、と。

 だから私は、「性同一性障害」と言われる人は、同性愛の嗜好を持っていながら、それを認めたくない人が駄々をこねているだけではないか、と邪推したのだ。その態度は同性愛を否定する事につながる。故に私は「間違っているように思う」と書いた。ところが私の事実認識の方が間違っていたようだ。

 あれから何冊か脳に関する本を読んでいくと、どうやら脳に男女の別があるようなのである。つまり、「男らしさ」「女らしさ」には科学的・生物学的根拠がある! ということだ。もちろん、後天的な刷り込みの作用もあるので、そんなにがっちり「男らしさ」「女らしさ」が決まっている訳ではないが、それでも先天的に厳然とした違いはある、という事だ。

 それで、オランダで性転換をした人達の死体を調べたところ、男から女に性転換した人の大部分は女脳で、女から男に性転換した人の大部分は男脳だったという。つまりこういう人達が「性同一性障害」なのだ。うーん、そうだったのかー! ちなみに、男脳と女脳では、分界条床核という部分のサイズが全然違うそうです。

 それにしても、やはり「性同一性障害者」の人の心理が分からない。いったいどういう部分で、自分の性に違和感を持つのだろうか。まず思い浮かぶのは性嗜好(指向)だろうけれど、どうやらこれは違うみたい。なぜなら、女から男に性転換して男を愛する、という同性愛の性同一性障害者もいるようだからだ。じゃあ、いわゆる「男らしさ」「女らしさ」という規範に対する違和感だろうか? それなら、「男らしさ」「女らしさ」の撤廃を叫ぶフェミニズムの人達というのは、性同一性障害者なのだろうか? うーん、分からん。

 私は 2000 年 7 月 30 日の日記で、「ア・プリオリに『正しい姿』『真の姿』なんてあり得ない、というのが私の基本信条である」と書いた。この基本信条に今でも変わりはないし、あの日記で展開した論理そのものも間違っていないと思う。が、その論理展開の素材となる事実に間違いがあれば、おのずと結論は違ってくるだろう。

 気になっていた事を、書いてみました。

小川顕太郎 Original:2002-Sep-29;