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 Diary 2002・10月2日(WED.)

首塚の上の
アドバルーン

 後藤明生の『首塚の上のアドバルーン』を読んでいたら、京都三条木屋町にある瑞泉寺の首塚の話が出てきた。これはもちろん豊臣秀次の首塚である。私は前々から一度ここを訪ねてみたいと思いながら、なぜか果たせないでいる。店から近いのに。そういえばここ瑞泉寺で、今年の夏に DJ イベントがあり、シノミヤくんが DJ を務め、そこに遊びに行ったマキさんが浴衣姿で踊っていたためにカメラに撮られ、テレビでその様子が放映された、という事があった。秀次の首はどう思っていたのだろうか。

 首といえば、やはりコロコロと転がっているイメージが印象的だ。深沢七郎の『風流夢譚』は、小説の出来としては駄作、というのが一般的な評価のようだが、私は、天皇や皇太子、皇太子妃の首がギロチンで落とされてコロコロ転がる、というイメージが面白くて、なかなか好きな作品である。山田風太郎にも、ずばり『首』という作品がある。桜田門外で殺された井伊大老の首が色々な人々の間を転々とし、様々な悲喜劇を起こす、という短編だ。この作品には、別に井伊大老の首がコロコロと転がるシーンはないのだが、なぜか私は、井伊大老の首が雪の夜道をコロコロ転がりながら哄笑しているイメージが頭の中に焼き付いている。あるいは、風太郎の他の作品にそのようなものがあったか?

 映画でも、このあいだ観た『ボーンズ』では、死の世界から甦ったジミー・ボーンズことスヌープ・ドッグが、かつて自分を殺した者達に復讐して、その生首を刈って持ち歩いているシーンがあった。その首が「ひどいぜ! やりすぎとちゃうか」と喋っていて、かなり間抜けではあったが。

 実はこの「間抜け感」が重要なのだ。例えば雑誌「フォーカス」創刊号に載った三島由紀夫の生首写真。これは、介錯の時に介錯人の森田必勝が泣いてしまって一刀の元に首を落とせず、何度もやり直したあげく、最後は他の人も手伝って鋸みたいに三島の首を落とした、という話をどこかで読んでいたので、痛々しくてあまり好きになれなかった。『首塚の上のアドバルーン』でも、『平家物語』では首を落としても血が流れない、という指摘がある。やはり血が流れるとダメだ。スッテンコロコロといかないと。

「そしてベランダに出て見ると、黄色い箱の真うしろのこんもりした首塚の丘の上に、アドバルーンが浮かんでいました。」(『首塚の上のアドバルーン』より)

小川顕太郎 Original:2002-Oct-4;