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 Diary 2002・11月7日(THU.)

xXx

 東宝公楽で『xXx (トリプル X)』を観る。私はこの映画を観て確信した。ハリウッド映画はこの方向に進むんだろうなあ、と。この方向とは、ズバリ、「超豪華なお子さま映画」だ!

 私はこの映画を観て唸った。「ううん、凄いアクションだ。ここまでやるとは…でも、話が幼稚すぎる!!!」あまりにも分かりやすい悪役集団がいて、これを超絶な運動神経を持つ主人公が倒して世界を救う、というお話。主人公がスケボーやスカイダイビング、カーチェイス、バイクなどに堪能なところもミソ。全身にタトゥーをいれて、スケボーやバイクに堪能なバカガキはアメリカにごまんといるだろうし、そういった人間が CIA のエージェントとなって世界を救うとなれば、彼らの幼稚な自尊心も甘く擽られることだろう。音楽、ファッションともにダサさ満載(一部 R&B と EVE を除く)なのもバッチリはまっている。さて、私はこの映画を貶しているのか、それとも褒めているのか? いや、ただちょっとばかり呆れているのだ。こんな幼稚な話を、わざわざ多大なお金と時間と才能を使って、それなりに面白く撮ってしまった事に。アクション映画なんだし、それなりに面白かったんなら、ストーリーの事をゴチャゴチャ言うのは野暮だ、という意見もあろう。しかし、敢えてここで踏みとどまり、このストーリーの幼稚さだけは批判しておきたい。

 例えば、私が近年観て面白かったアクション映画といえば、『フェイス/オフ』なんかがある。『フェイス/オフ』は確かに荒唐無稽な話だった。が、幼稚な話ではなかった。荒唐無稽なアクション映画には、我々の硬直しがちな観念を吹き飛ばす効果があるが、幼稚なアクションには、それはない。いや、確かにこの『xXx (トリプル X)』には、アクションシーンだけ取り出せば、目の覚めるようなシーンがいくつもある。しかし、それも全体のストーリー、世界観と言ってもいいが、の幼稚さの中に、結局回収されてしまっているように思える。

 ここで「幼稚」という事を定義しておくと、それは取りあえず、大事な事から目を逸らし、責任から逃げている、という事だ。この定義は、福田和也の『なぜ日本人はかくも幼稚になったのか』という本から採ったが、この本の中で、福田和也は「大事な事」とは「生き死にに関わること」だと述べている。これは正にこの映画にも当てはまることで、この映画は徹底的に「大事な事」から目を逸らしている。主人公のザンダーは、「金なんかいらねえ」とうそぶくし、エージェントへの正式採用が決まっても(つまり就職先が決まっても)、「ごめんだね」と言う。まあ、エージェントへの正式採用を断るのは分からないでもないが、生活の基盤への軽視が、ザンダーの中にあるのは間違いないだろう。命しらずだし。で、この事は、映画の構造そのものの中にも組み込まれている。まず、ザンダーは不死身だ(!)。次に、映画において感情移入できる人物は誰も死なない。死ぬのは、悪人か雑魚ばかり。つまり、死(生)に重みがまったくない。ということは、命がけのスタントも、空転するばかりという事になる。死(生)がなければ、失敗もあり得ないからだ。

 福田和也は前記の著書で、平和ボケした日本人は幼稚化した、と主張した訳だが、アメリカ人も、日本人に劣らず幼稚化しているのではないか。このように高度な幼稚さを作ってしまえるのだから。この映画も、世界帝国として長年君臨し続けたアメリカの崩壊の兆し、と捉えることができるかもしれない。

 最後に付け加えると、ザンダーの上司役にあたるサミュエル・L ・ジャクソンの存在が良かった。彼の存在が、この映画を救っているように思える。彼だけが、この予定調和的な幼稚な世界で、唯一他者になり得る可能性を秘めているからだ。できれば、彼の他者性をもっと全面展開してほしかった。

 ウェルカム・トゥ・ザンダーゾーン! そこは、崩壊しつつあるアメリカ帝国。

小川顕太郎 Original:2002-Nov-8;