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 Diary 2002・3月21日(THU.)

ダーティーハリー

 今月号の「映画秘宝」を読んでいたら、 町山智浩が『ダーティーハリー (とフレンチコネクション)』 について書いていた。町山智浩の文章はいつも面白く、実際今回の文章も面白かったのだが、どうしてもひとつだけモノ申しておきたい所があったので、書いておく。

ダーティーハリー』は、クリント・イーストウッド演ずるハリー・キャラハン(警察官)が、法に保護された凶悪犯を、自らの信念に従って処罰する、という話だ。無差別殺人を繰り返し、少女を誘拐してなぶりものにする凶悪犯スコルピオ。彼を追いつめたハリーは、「弁護士を呼べ!」と叫ぶスコルピオの足を拳銃で撃ち、そこを足で踏みつけながら(拷問をしながら)、誘拐された少女の居場所を聞き出す。しかし、すでに少女は殺された後だった…。

 で、ここからが問題なのだが、この犯人は釈放されてしまう! なぜかというに、ミランダ権をハリーが無視したからだ。ミランダ権とは、犯人の人権を守る法律のことで、逮捕する前に、「お前には黙秘権がある、うんぬん」と伝えなければならない、というものだ。ハリーはこれを無視しただけでなく、拷問に近い行為を行ったので、拷問によって得られた自白は証拠として採用されない、という原則もあって、犯人は無罪となったのだ。そんなアホな! だって、自白によって殺された少女の遺体があがったのだし、スコルピオが犯人なのは明白じゃないか! と、私はこの映画を観た当初から、どうしても納得できないのであった。が、まあそれはとにかく、ハリーはマスコミからも悪徳警官として攻撃され、上司には怒られ、散々な目にあうのだが、スクールバスをジャックしたスコルピオを、最終的に射殺し、警察バッジを捨てて去っていく。というのが、映画史上に残る傑作『ダーティーハリー』の粗筋だ。

 ここまではいい。私が問題にしたいのは、『ダーティーハリー 2』に関する評だ。『ダーティーハリー 2』は、法の編み目をかいくぐって温々としている悪人どもを、勝手に殺しまくる白バイ警察隊が登場する。一見ハリーと似たような事を、もっと過激な形でやっているようにみえるが、ハリーはこの白バイ警察隊の前に立ちふさがり、彼等をやっつける。これに対して、町山智浩はこう書く。ハリーはもうアウトローではなく、普通の警察官になってしまった、と。…え?

 実は似たような事は前から色んな人に言われていて(例えば、アウトローのハリーが、法の番人として帰ってきた! とか)、私はそういった文章を読むたびに、違う! お前らはまったく『ダーティーハリー』を分かっていない! と叫んできたのであった。ハリーの態度・立場は、1 と 2 で、まったく変わっていない。一貫している。その立場を敢えて私の言葉で言うなら、「正義」ということだ。法律が過剰に加害者を保護する事によって、被害者が蔑ろにされ、「正義」が損なわれている。だからこそ、オレが「正義」を回復するのだ、というのが、ハリーの一貫した態度・立場だ。そしてそこが、ポーリーン・ケイルのような左派リベラルの知識人に「ファシズムの夢物語」と非難された所だろう。要するに、「あんたの『正義』は『独善』に過ぎないわよ!」という非難な訳だ。

 それに対して、左派リベラルの頭の悪さに苛立っているリバータリアンのイーストウッドは、「それなら『正義』と『独善』の違いを示してやろうじゃないか」という事で作ったのが、『ダーティーハリー 2』なのではないか、というのが私の考えだ。白バイ警察隊は、ハリーの「正義」に対して、「独善」なのだ。なぜなら、ハリーは、常に自分の信念、そしてそれに基づいた行動を皆の前に晒している。その事によって、バカなマスコミに叩かれたり、左遷されたりと大変な目にあうが、そこから逃げはしない。自分の行為を公にし、評価を民衆・常識・歴史に任せる、という立場だ。が、白バイ警察隊の方は、こっそりと殺人を行い、表面上は普通の警察官をやっている。これは、例え極悪人を処罰し、みなが喝采を送るにしても、常に「独善」に陥る危険性がある。正しいものにせよ、間違ったものにせよ、他人の評価を拒むものは、常に「独善」に陥るのだ。

 実はこの「独善性」は、左派リベラルのものに酷似している。左派リベラルは、「人権」や「平等」など、絶対的な「真理」を掲げて、様々な運動をする。この「真理」が分からない人達は「未だ啓蒙されていない」蒙昧な大衆であり、この「真理」を拒否する人達は「保守反動のファシスト」なのだ。基本的に他人の評価を受け付けない。これに対して、民衆の素朴な声、なんで犯罪者が保護されて被害者が蔑ろにされてるの? など、を代表するのがリバータリアン。カリフォルニア市長まで務めたイーストウッドの政治的立場はもちろん後者だ。私は、こういう民衆・常識・歴史に裏打ちされたものこそ、「正義」と呼ぶにふさわしいと思う。

 だから、『ダーティーハリー 2』は、ポーリーン・ケイルら左派リベラルの批判に対する回答、且つ皮肉であった、というのが私の『ダーティーハリー 2』評だが、如何? 別にハリーは日和った訳じゃあないんだよ!

『ダーティーハリー』は、個人的映画ランキングでベスト 10 に入るぐらいの大好きな作品なので、思わず力んで書いてしまいましたー。

小川顕太郎 Original:2002-Mar-23;