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 Diary 2002・7月24日(WED.)

テロルの系譜

 マンガ『テロルの系譜(かわぐちかいじ作)が、ちくま文庫に入って復刊したので、購入して読む。このマンガは、明治・大正・昭和の有名なテロ事件を、連作形式で描いたものだ。解説を、元・新右翼の鈴木邦男が書いている。

 テロルといえば、大義のために一身を殺して殺人を行う、というイメージがあるが、このマンガの特色はといえば、そういったテロルを、徹底してテロリスト個人のものとして描いた点だ。いくら大義のためとはいえ、テロを行うからには個人的な事情もある。その個人的な事情を拡大して、あたかも大義のためというよりも、個人的な怨恨をはらすため、鬱憤を散らすため、落とし前をつけるため、コンプレックスを克服するために、テロを行った、という風に描いているのだ。まあ、それはそれで良い。そんなマンガがあってもよいし、なかなか面白く描けていると思う。ただ、私は鈴木邦男の解説について、少し首をひねらざるを得なかった。

 解説によれば、このマンガは 75 年に発表されたのだが、「政治の季節」が去って革命の大義を失い、茫然としていた青年達に、右翼・左翼・一般を問わずに衝撃を与えた、というのだ。鈴木邦男などは、もう活動をやめようかと考えていた時にこのマンガを読み、「やめるな、続けろ!」と叱咤されたような気持ちだったという。

 しかし考えてみるに、彼等はなぜ大義を見失ったのか? それは、その大義が間違っていたからではないのか? もっといえば、若さ故に、なにものか大きなものに踊らされていただけではなかったのか? だから、役目が終わり、音楽が止むと、踊ることが出来ずに茫然と立ちつくすのみだったのではないのか。この私の憶測を裏付けるように、鈴木邦男はこうも書いている。「展望を失くした活動家たちが、それでも運動をやめられない。運動を続ける大義が、理由づけが欲しかった。かわぐちの漫画は論理ではなく情念で、それに応えた。」

 彼等に必要だったのは、音楽ではなく、個人を離れて全体を見渡すことではなかったか。このマンガも、個人を離れて全体の考察に向かう契機になればよかったのだが、逆に個人的なヒロイズムを再燃させていては、意味無いではないか、と思う。もちろん、それはこのマンガの、かわぐちかいじの責任ではない。かわぐちかいじは、このマンガで個人の原点を描いた後、全体の考察へと向かい、『沈黙の艦隊』『ジパング』を産み出すことになったからだ。その考察が正しいかどうかはとにかく、かわぐちかいじは、個人の情念やヒロイズムだけでは結局何かに踊らされるだけだということに気付き、踊らされないように大きく全体を見る努力を行っている。この行き方は正しい、と私は思う。

 それに較べて、鈴木邦男はどうだ。確かに彼も「脱・右翼」を行っている。が、それは全体を考察した結果というより、ただ単に大義を見失い、そのままズルズルと俗情と結託してしまっただけのように思われる。現在の彼の、リベラルというよりは、単なるミーハーおじさんのような発言の数々を見ていると、そう思わざるを得ない。彼はこの解説で、911 の実行犯たちに対して、否定的な言及をしている。それも、私に言わせれば、全体の考察が出来ていないからだ、と言うことになる。結局、鈴木邦男の見解とは、テロは基本的にダメだが、この『テロルの系譜』に出てくるテロリスト達のように、堂々と天下に身を曝して自らを殺して行うテロには共感できる。しかし、人質をとったり無関係の人を巻き込むようなテロはテロリズムの名にも値しない、というものだ。なんという生ぬるい考察! 鈴木邦男が共感するテロを、単なる独りよがりにしか見えなくさせるのが、あの 911 ではなかったか。あの 911 を、無関係の人を巻き込んだから卑劣でテロの名に値しない、と言ってしまうことは、思考停止でしかない。なぜあのような事件が起きてしまったのか、という全体の考察に向かわなければならないのだ。

 ……ああ、疲れた。もう寝よう。

小川顕太郎 Original:2002-Jul-26;