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 Diary 2002・12月15日(SUN.)

ブラッド・ワーク

 MOVIX にクリントイーストウッド主演・監督の最新作『ブラッド・ワーク』を観にいく。なんだか最近はよく映画を観に行っているみたいじゃないか、と思ったあなた、それは正しい。年間ベスト 10 の対談日を間近に控えて、慌てて映画を観に走っているのだ。今年は印象に残るような映画が少なかったので…。で、この作品も、ババさんに「イーストウッドの最新作、やってますよ」と教えられて、観にいった。イーストウッドの最新作が来ているなんて、ちっとも知らなかった。またしても(?)あまり話題になっていないのかな? そう思いながら劇場に入ると、小さい場所とはいえ、かなり席は埋まっている。私は前から 3 列目の真ん中で観た。そこには、「映画」があった。

『JLG/自画像』についての日記で、ストーリーに隷属しない映像と音に満ちたこの作品こそ、まさに「映画」だ、といった内容の事を私は書いた。その時に、もちろんストーリーがあっても「映画」と呼びうる作品はある、が、今年はそういう作品にあまり出会えなかったような気がする、といった内容の事も書いた。その「ストーリーがあっても『映画』と呼びうる作品」に、この『ブラッド・ワーク』はあたる。地味な作品ながら、随所に目の覚めるようなシーンがあるし、話もよくできている。まさに、これこそ「映画」だ。たっぷり堪能した。

 以下、ネタばれになるので、まだこの作品を観ていない人は、読まないで下さい。この作品は、いわゆる「ミステリー」なので、種をしらずに観た方が絶対に楽しめると思います。

 さて、イーストウッドの作品は、たいてい政治的である。といえば、誤解を招くかもしれないけれど、「政治的」とは、「人生をどう生き抜くか」という問題に真摯に取り組んでいる、という意味だ。「政治」とは、「人生を生き抜く技術」の事だから。で、イーストウッドの政治姿勢は、いわゆるリバータリアン。簡単にいえば、自分の事は自分でやる、という人生態度だ。福祉などの施しはいらない、自分の事は自分でやるから俺に干渉しないでくれ、というもの。「リベラル」と呼ばれる、左寄り・進歩派の人々と鋭く対立する。イーストウッドのこの政治姿勢は、『ブラッド・ワーク』でも見事に貫かれていた。

 FBI 分析官であるイーストウッドは、宿敵の連続殺人鬼のおかげで心臓移植が出来、命を長らえている。連続殺人鬼は、自分の宿敵が居なくなるのがイヤだったのだ。だから、映画のラストでイーストウッドに追いつめられた時、「やめろよ、俺は命の恩人だぞ、俺たちは友達だろ?」といった内容の事をいう。それに対してイーストウッドは、「お前は友達のつもりかもしれないが、俺にはお前なんか必要ないんだ」と言って、拳銃で撃つ。「おれが助けてやったのに…」と絶句しながら死んでいく殺人鬼。この場面には、リバータリアンとしてのイーストウッドの面目が躍如としている。命を救ってやったんだから自分に感謝しているはずだ、という犯人の傲慢な意識は粉微塵に砕かれる。施しは侮辱となる事もあるのだ。この事実に、傲慢な者は気が付かない。イーストウッドは、この侮辱を受けた者の悲哀を、十分に演じきっていた。とはいえ、そうはいっても、自分よりずっと年の若い娘とちゃっかりできちゃったりするのだが。こういう所も最高。リバータリアンは、基本的に人生に肯定的なのだ。

 さて、では私のようなイーストウッドファンの日本人は、ここから何を学ぶべきか。もちろん、現行憲法の改正・日米安保の破棄、こそ我々の最終的に採るべき道だ、と強く再確認することだ。この連続殺人鬼は、矮小なアメリカ帝国である。彼はこう言う。憲法も民主主義も与えてやった、共産圏に対する防波堤として、技術も情報もやって育ててやった、安保で国も守ってやっている、俺たちは同盟国だろ? それに対して我々も、強く言い返さねばならない。「お前は同盟国のつもりかもしれないが、俺にはお前なんか必要ないんだ」。そして、拳銃を撃つ…つもりが逆に核爆弾を落とされて、我々は死滅。…ああ、あかんやん。ここで撃ち返せない我々は、当分のあいだ、お金をむしり取られ続けるのです。……善意が侮辱になる事もある。施しが社会を腐らせることもある。その事にお気づきですか、アメリカ帝国殿?

 イーストウッドが、突如として銃を撃つシーンは、何個かあるのだけれど、どれも素晴らしい。これこそ、映画の愉悦だと思う。私の(偶然)隣で観ていたババさんは、各所で笑っておりました。

 やはりイーストウッド最高。これはベスト 10 入り確実です。

小川顕太郎 Original:2002-Dec-16;