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 Diary 2002・12月9日(MON.)

JLG/自画像

 正直言って、今年の私は映画運がなかった。観る映画、観る映画、もちろん公開作の話をしているのだが、どれも面白くなく、だんだん映画館に足を向けるのがイヤになってきた。1800 円払うのも、こうなっては苦痛だ。もう当分のあいだ、映画はいいや、と、このような次第ゆえに考えていた私であったが、『JLG/自画像』『フォーエバー・モーツアルト』『ウイークエンド』の 3 本がみなみ会館で上映されると知った時、心の底から「ああ、映画が観たい!」という思いが沸き上がってきたのであった。

 おいおい、映画はとうぶん観たくないんじゃなかったのか? と、自分自身に突っ込んでみたら、私は「いや、今年観た作品はことごとく『映画』じゃなかったんだ!」と答えた。私は「映画のようなもの」を見続けて、すっかり麻痺してしまった、「映画」を観なくては! 「映画」を取り戻さなくては! と、憤然としてみなみ会館に駆けつけ、最前列にドッカと腰を下ろした。スクリーンに映像が投影され、スピーカーから音が流れる。そこには「映画」があった。

『JLG/自画像』は、ゴダールが自分自身の自画像を映画で描こうと試みた作品だ。主にゴダールの家が舞台となっており、ゴダール自らがカメラに収まっているが、特にストーリーのようなものはない。さまざまな映像や音が、あまり脈絡もなく(?)次々とスクリーンに顕れる。そしてそれが、驚くほど「映画」なのだ。これは一体どうしたことだろう。私が今年見続けた「映画のようなもの」と、何が違うのだろう。

 簡単に考えられるのは、「映画のようなもの」ではストーリーを語るために奉仕させられていた映像と音が、『JLG/自画像』では映像と音そのものとして、裸のままで差し出されているからだ。そこでは、「映画」が強度を獲得している。しかし、それではストーリーがないのが「映画」で、ストーリーがあるのが「映画のようなもの」なのだろうか。それは少しおかしくないか? 普通我々が「映画」と呼んでいるものは、ストーリーがあるもんじゃないか?

 確かにこの疑問は当然で、要は「映画」という言葉の定義の問題だろう。「映画」とは何か。私にとってそれは、スクリーン上の映像と音が産み出す強度の体験、の事だ。だから、ストーリーはあまり関係ない。もちろん、ストーリーがあっても、強度の体験は作りうる。私はしばしば「ウェルメイドな作品は面白くない」と言う。それは、映像と音がひたすらストーリーを円滑に語るために使われている作品を指している場合が多い。また、私はよく「失敗作の方が好きだ」と言う。これは、映像と音が圧倒的な強度でストーリーを浸食・破壊している作品の事を指している場合がほとんどだ。なんやかんや言っても、世間的にはやはりストーリーが一番大事とされている。どのような映画であったか=どのようなストーリーであったか、という図式で話は進むし、私も普段はその図式に寄っかかって話を進める。だから「失敗作が好き」などと発言し、訝られたりするのだ。(あるいは、ハスミのマネをしているのかと疑われたり…)

『JLG/自画像』は、1 時間ほどの作品なのだが、映像と音の強度に満ちている。『映画史』を思わせる、ゴダールの老人力ぶりも素晴らしい。とりあえずは「幸福」と名付けるのが適当であろう感情に満たされ、私は映画館を出た。

 今日は映画を観てしまった。

小川顕太郎 Original:2002-Dec-10;