京都三条 カフェ・オパール Cafe Opal:Home

Home > diary > 02 > 0819
 Diary 2002・8月19日(MON.)

野中広務

 先日はマツヤマさんと、石原慎太郎待望論ならぬ、森義朗(ふたたび)待望論を大いに語ったのだが、今日はヤマネくんと、「野中広務って、いいよねー」論を、朗らかに語り合った。

 最近の野中広務と言えば、雑誌「文藝春秋」8 月号の「中国不信」大特集の中に、なぜかひっそりと「親中派にも言わせてほしい」という文章を寄せていたのがよかった。いい感じ。それにしても、なんでこんな「反中」の特集の中にひとつだけ「親中」の文章が? バランスをとろうとしたのか? と思ったのだが、それにしてはあまりにもバランスを失している(親中的な文章は野中のこれひとつだけ)。と、いうことは、これはもしかして晒しもの?

 どうやらそのようで、さっそく「正論」9 月号で東谷暁が、この野中の文章を叩いている。それも、なぜこの文章が悪いのか、という説明はほとんどなしで、ほぼ野中の文章の引用のみで、批判をしているのだ。ということはつまり、反中派の人達にとっては、野中の文章は説明を加えるまでもなく、引用する(晒す)だけで充分酷いと感じられる、という訳だろう。うーん、私はけっこう感心しながら読んだんですけどね、野中の文章。

 野中が言っているのは、要するに、色々と中国に対して不満もあるだろうが、同じアジア人なんだし、そう揉めないで、よーく話し合って良い関係を中国と築いていきましょう、いや、良い関係を中国と築くのが日本にとっても良いことなのです、と言うことだ。野中は「文藝春秋」の文章で、「私は率直な話し合いを何より大切に考える人間です。こちらがはっきり意見を言えば、相手も誠実に答えを返してくれるものだと信じています」と、まるで平和ボケしたリベラルみたいな事を言っている。東谷はさっそくこの文章を引用して、「そんなことは野中氏の地元のイケズな京都では成り立たないだろう」と皮肉っている。

 確かに、この言葉が平和ボケしたリベラルな人間の口から語られたのなら、私も呆れかえって皮肉のひとつも言いたくなっただろう。しかし、この言葉を語ったのは、あの野中広務なのである。実質的に自民党を牛耳っており、という事は実質的に日本を動かしている男の口から語られた言葉なのだ。そんな表面的な、生ぬるい言葉ではないと思う。私は凄みさえ感じてしまった。どういうことか。

 例えば、反中派の人達のよく使う中国批判に、中国は人権無視・ルール無視の狡猾で酷い国だから話し合いなど無駄だ、というものがある。だから野中のこの言葉など妄言だ、という事になるのだが、ちょっと待ってほしい。この中国批判(野中批判)は少し「論理的」におかしくないか? 「ルール無視」をする国だから「話し合い」は無駄なのだろうか。逆に、「ルール無視」をする国だからこそ、「話し合い」が大切なのではないのか。

 なぜ中国が「ルール無視」をする国と言われるのかというと、中国は、「ルール」より「情宜」を重んじる国だからだ。例えば、情宜の深い相手には、同じものを情宜が浅い人間より安く売ったりする。情宜の深い人間には、ルールなんか無視していくらでも便宜を図るが、その分、情宜の浅い人間には平気でルールを破って迷惑をかけたりする。だからこそ、中国は近代化の遅れた国だ、資本主義は根付かない、などと批判される訳だが、実は日本も大同小異なのではないのか。ほら、よく日本もアメリカから、「日本は談合(話し合い)ですべて決めてしまって、資本主義のルールを守っていない(市場が自由化されていない)!」と批判されているではないか。

 つまり、「ルール」と「話し合い」は、往々にして対立するのだ。ということは、「ルール無視」の国だから「話し合い」は無駄、ではなく、「ルール無視」の国だからこそ「話し合い」は不可欠だ、ということになる。野中の方が正しいのだ。

 いくらこちらがいきり立って、正論を中国に対してがなりたてても、中国は情宜の浅い人間の言うことなんかに耳を貸さない。だったら、まず腹を割ってよく話し合い、相手と情宜を深め、それからこちらの意見を述べれば、相手も話しを聞いてくれることになる。これは、やはり、多少かっこ悪いことかもしれない。どうしたって相手に妥協する所が出てくるからだ。それよりは、相手がこちらの言うことを聞こうが聞くまいが、自分の信じる「正論」を述べ立て、それで関係が破綻すれば闘いも辞さず、という態度をとった方が、いっけん「かっこいい」だろう。しかし、そういった態度は、非現実的で、子供っぽい、自己満足的なものともいえる。かっこ悪いことや汚いことにも敢えて手を染め、地道に粘り強く事をすすめていくのが、大人の・現実的なやり方だ。そして、政治家は特にそうでなければ務まらないと思う。野中広務は一流の政治家なのだ。

 まあ、ジャーナリストや評論家、知識人というのは、現実にはそれほどタッチしなくてよい人が多いので、かっこよく紙上で啖呵を切ってればよいのかもしれない。そして、学生や子供などは、そういったかっこよさに惹かれるので、そういった人達の書いた本を買う。私も、昔はそうだった。しかし今やそういった子供っぽいのは、馬鹿らしくて読む気がしなくなった。まず、左翼系の本が馬鹿らしくて読まなくなったのだが、いわゆる「保守派」とされる人達の書くもののなかにも、かなりの割合で子供っぽい・馬鹿らしい本があることが分かってきて、最近はうんざりする事が多い。「かっこつけ」の奴に「国益!」とか叫ばれてもねえ。たいてい「国益」は、「かっこつけ」の奴が損ねているんだよ。

 野中広務には頑張ってもらって、日本の国益をしっかり守ってほしいものです。

小川顕太郎 Original:2002-Aug-21;