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 Diary 2001・10月14日(SUN.)

ラッチョ・ドローム

 JR 京都駅ビルの 7 階に特設された「駅ビルシネマ」に、『ラッチョ・ドローム』(1993 年/フランス/トニー・ガトリフ監督)を観に行く。

 この映画は、パンフレットに載っている監督の言葉によると、「(意図したのは)…記憶(メモリー)ということ。『ラッチョ・ドローム』はドキュメンタリーでもフィクションでもない。これは脚本に基づいて演出されたミュージカル映画であり、インドからスペインへのジプシーの歴史をたどっている」作品です。ストーリーと呼べるようなものはなく、各地で踊り、歌い、生活し、移動するジプシー(ロマ)の様子が描かれる。説明が一切ないので、何をしているところなのかが分からないのだが、とにかく歌と踊りがかっこいい。歌と踊りが生活の中に溶け込み、生活の一部となっている。

 私も日々、ソウルのレコードを聴きながら踊り狂っている人間なので、「歌と踊りが生活の中に溶け込んでいる」という状態に憧れる。が、それは所詮、失われたものなのだ。私がいくらソウルミュージックが好きだからといっても、それは本来、我々日本人には関係のない音楽だ。だいいち歌詞など分からないままに聴いている。しかし、ソウルミュージック自身も、そういった音楽だ。つまり、生活に溶け込んだ音楽ではない。音楽として自立している。対して、ジプシー達の音楽は、音楽として自立していない。彼(女)らの生活と渾然一体となっていて、分離できない。だからこそ、生活の一部になり得るのだ。

 我々は世界中の音楽を楽しむことができる。が、ジプシー達には出来ない。そもそも、「音楽を楽しむ」という概念自体が、我々とは違うだろう。ジプシー達は、「音楽」のみを楽しむという事はありえず、音楽も踊りも生活も一緒になったものを、楽しむのだ。私は、失われた「歌と踊りが溶け込んでいる」生活をスクリーンに観て、激しい憧憬を覚える。

 しかし、上映後に買い求めたパンフレットを読むと、この映画に出てきて、いかにもそこらへんのジプシーの人々のような振りをして、歌い・踊っていた人々が、実はレコードも出していれば、日本までやってきて公演もするプロの人々だった、という事が判明した。という事は、もちろん彼や彼女らの歌・踊りは「自立」している。つまり、生活に溶け込んではいない。それをいかにも生活に溶け込んでいるように描いたのは映画の嘘=フィクションの力だろう。なるほど、やはりこれは映画であったか。

 それにしても、実際のところ、ジプシー達はいかにして暮らしているのだろうか? と、私は猛烈に知りたくなったのでした。

 帰りに大宮でバスを降り、バス亭のすぐ前にある「王将」に吸い寄せられるようにはいって、餃子とラーメンを食べていると、ヒロキくんが入ってきた。あらまあ珍しい、と言い合いながら餃子を食べる。ヒロキくんは、相変わらずたくさん食べていました。

小川顕太郎 Original:2001-Oct-9;