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 Diary 2001・5月12日(SAT.)

フィッツカラルド

 みなみ会館にヘルツォーク監督/キンスキー主演『フィッツカラルド』(1982 年)を観に行く。これがまた良い映画だった。これはオペラの魅力に取りつかれたフィッツカラルド(クラウス・キンスキー)が、南米のジャングルにオペラハウスを建てるべく、周りの失笑を買いながらも無謀な計画を携えて東奔西走する、というお話だ。

 自分の夢=妄想を実現するべく、周りがどうであろうとひたすらに邁進する人間というのは、一種の気狂いであろうが魅力的である。気狂いであるがゆえに、その夢=妄想が、例えば「完全平等社会の実現」「美しさと真実と正義の貫徹」などというものだった場合は、金持ち皆殺しとか民族浄化(大殺戮)に結びついたりして、危険極まりなかったりするのだが、それでもなお魅力的であることをやめない。

 こういった事情は、夢=妄想が芸術に関わることであっても同じで、実際ヘルツォークはこの『フィッツカラルド』の撮影に関して、エキストラのインディオに扱いが非人道的だとアムネスティに訴えられたり、アマゾンを破壊したと環境保護団体の非難をあびたりしていたようだ。だからといって、最近流行りの PC をきかせればいいってもんじゃない。大体において、映画がつまらなくなる。ではどうすればよいのか。

 浅田彰なんかは、政治と表現(芸術)を分ければいい、と言う。政治的には PC をきかせ(モダン=近代主義を通し)、表現は PC フリー(ポストモダンでいく)と。

 でもこれはどうにも都合の良すぎる意見だと思う。何故なら、政治と表現はそこまできっちり分けられるものではないと思うからだ。それこそ「戦争は最高の芸術形態だ」と宣言したイタリア未来派から、かなり後退していると思われる。イタリア未来派の支持したファシズムが戦争で負けちゃったので、このような後退が平然とまかり通っているのではないか。今こそファシズムの再評価を! とマジで私は考えています。それこそフィッツカラルドのように、周りの失笑を買いながら。

 そういえば『神聖喜劇』の東堂太郎も、国枝史郎の小説から「意志は強し、生命より強し」という言葉、道元の「この心あながちに切なるもの、とげずと云ふことなき也」という言葉を常に念頭に置き、強く念じていた。やはり人間こうでなくてはならない。ラストシーンは猛烈な感動に襲われました。

小川顕太郎 Original:2001-May-14;