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 Diary 2001・6月9日(SAT.)

ソウルフル

 カワキタさん来店。RCS を辞め、不眠症で苦しんでいる、という噂は入ってきていたものの、その後どうなったのか、舞台の裏方で働いているらしいが実際の所はどうなのか、と心配していたので、元気そうな(?)カワキタさんの顔が見られて、ひとまず安心といったところか。現在カワキタさんはライブハウスの PA をしているらしい。映画も 1 年ほど観ていないらしく、毎晩ぐっすり眠ることができて嘘のように健康とのこと。

 この話をババさんにすると、「う〜ん、やっぱり映画ばっかり観ていたら健康を害するよねえ、精神も。」としみじみ言った。

 大岡昇平が『俘慮記』で、自分達の世代の文士は映画を観るようになったので、前の世代の文士達より文章が軽薄になったと、前の世代から批判されもするし自分でもそう思う、といった内容の事を書いていた。戦前からすでにそういった批判があった事が分かる。が、戦後になってテレビが大衆化し、映画はまだマシなものになった。

 書家の石川九楊は、テレビは所詮「疑似見聞」に過ぎないので結果として「見る」能力も「聞く」能力も殺してしまう、最近の若者はテレビの見過ぎで真剣に「見る」ことや「聞く」ことが出来なくなっている、とテレビを批判しているが、映画は非日常の体験として独立しており(もちろん映画館で観ることが前提)、商品として作品としてギリギリの所で作られているので経験として蓄積可能。だから経験として蓄積不可能のテレビとは全然違う、と擁護している。まあ、映画がダメならテレビはもっとダメ、ということか。

 それでもこういった考え方は、何でも古きを良しとし、新しいものをダメだとする保守的な考え方だ! テレビは素晴らしい可能性を秘めているんだ! といって、テレビを擁護する人達もいる。モダニスト、というよりはっきり左翼系の人達ですね。吉本隆明なんかが代表でしょうか。確かにテレビの蓄積を破壊する力、伝統を破壊する力には凄まじいものがあるので、左翼の人達が歓迎するのも分からないでもない。私は保守主義者なので伝統は大事にしますがね。

 でもねえ、例えば吉本隆明なんかは、そりゃテレビもたくさん観ているかもしれないが、それ以上に本も読み、詩も詠み、思索も重ねているでしょう? テレビだって、それを通して時代を読もう、とかそういった事を考えて、つまり思考の材料として観ているんじゃあないですか。普通の人達はそんな風に観ていないですよ。ただ、ボーっと見ているだけ。考えるのが面倒臭くて、手っ取り早く快楽だけが欲しくて見ている訳だから。あるいは暇つぶし。だからどんどん「見る」ことや「聞く」ことや「考える」ことが出来なくなっていく。

 ギル・スコット・ヘロンは、テレビは革命を放送しない(テレビを見ていたって革命は起らない)、テレビを見るのを今すぐやめ、今ここで革命を起こせ! と歌った。

 黒人のミュージシャンで、黒人達の意識を高めようと頑張っている人達は、テレビを見るな! ストリートに出ろ! 真実を掴むように努力せよ! と歌う。こういった主張の方が、ほんとうにまっとうだと思うのだが、どうか。

 はっきり言うが、ソウルフルとは「自らのルーツをはっきりと認識し、その事に誇りを持つこと」だ。つまり我々であれば、日本人であるとはどういう事かをはっきり認識し、日本人である事に誇りを持つことだ。みんな私の事を右翼だ右翼だと言うが、いや右翼と言われても構わないが、私はソウルフルなのだ! よ! ね! まあ、そのつもりなんですよ、本当のところ。ロックとテレビはサヨクにくれてやるよ。KEEP THE FAITH !

小川顕太郎 Original:2001-Jun-10;