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 Diary 2001・7月29日(SUN.)

原田観峰

 ショウヘイくんのお母さんが、通信教育のような形で習字を習っていたのは聞いていたが、その習っていた時の資料が出てきたと言って、ショウヘイくんが何冊かの冊子を持ってきた。そのうちのひとつをみると、「日本習字だより」と題してあり、白い長髭と白い衣装を風に靡かせて、太い杖を持って大平原に佇む老人の写真が一面に載っている。そしてその写真の上には「観峰宗師シルクロードへ」と大書してあった。これは…、もしかして原田観峰か! こういう人だったのか。初めて見た。思わず笑ってしまいました。

 原田観峰とは、書道界の異端児、癌、と言われている人だ。癌、とはいささか言い過ぎかもしれないが、この人が作った「(財)日本習字教育財団」が、現在の一般の人々の書に対する理解を混乱させているのは、まず間違いないだろう。例えば、書道をやっている人に、一般の人が「ほう、書道をやられているんですか。で、腕前は何段ほどで?」と訊いたりすると、非常にイヤ〜な顔をされて、こう答えられるだろう。「書道に段位はありません」。そう、書道に、というか正確には習字に段位を持ち込んだのは、この原田観峰の「(財)日本習字教育財団」なのだ。

 私はこの原田観峰がどれほどの実力を持った人なのかは知らないが、少なくとも、書道界からは抹殺されている。書道の歴史や現状を述べた本には、ほとんど出てこない。いや、いままで私が読んだ範囲の事ですが。で、書家の人に言わすと、「あれは書道ではない」と断言する。つまり、よく「ボク(わたし)も昔は書道をやっていたよ。初段だったかな」という人が居るが、それは書道ではない。それは習字、それもかなり特殊な習字に過ぎない、という事になるのだ…。

 こういうと、反発する人もいるかもしれない。なぜ「(財)日本習字教育財団」が特殊で、他の書道団体、例えば「長興会」などはそうじゃないのだ。どちらも集金システムとしては、似たようなものじゃないのか。誰が、それを決めているのか、と。しかし、書道とは、単に字を上手に書く技術ではない。それは何千年もの歴史と伝統に連なる営為なのだ。だから、書道の歴史に連なっていないと、書道界の人たちにみなされたら、それは書道ではないのだ。前衛書家達は、いくら書から離れている事をやっているとしても、書道界から認知される事によって、かろうじて書たりえている、という事なのだ。

 それでもなお、なぜ原田観峰と「(財)日本習字教育財団」は、書道界から認められないのか? という疑問は残る。単に字が下手だ、という意見もあるようだが、私はよく分からない。しかし、今日、この「日本習字だより」を見て、その理由の一端が分かったような気がした。なんというか、その、宗教臭いのだ。原田観峰のルックスもさる事ながら、彼を「宗師」として崇める文章や、世界中をまわって様々な有名人と一緒に写っている写真など。オウム真理教、あるいは創価学会みたいだ。これは、嫌われるだろうなあ。特に、習字教育という衣を纏って、一般人に深く浸透しているなら、なおさらだ。なるほどなあ。

 書道の世界もいろいろあります。

小川顕太郎 Original:2001-Jul-31;