京都三条 カフェ・オパール Cafe Opal:Home

HOME > diary > 01 > 1224
 Diary 2001・12月24日(MON.)

誰も文字など
書いてはいない

 先日いただいた『誰も文字など書いてはいない』 石川九楊著二玄社を読了。 「書」の世界への案内書として、これまで石川九楊が展開してきた論を簡潔にまとめた好著。石川九楊は、西欧の文化と東洋の文化の違いを、「はなす」と「かく」の違いに求める。どちらも根元的な表現方法だが、西欧は「はなす」という表現方法を核に発展し、オペラやクラシック音楽など、音楽を中心とした文化になっていった。これに対して、東洋(東アジア・漢字文化圏)は「かく」という表現方法を核に発展していき、「書」を中心とした文化を形成した。つまり、我々日本人の属している東アジア・漢字文化圏の文化の中心・基底は「書」なのだ。「書」の教養こそが、我々にとって必要不可欠なのである。

 とはいえ、今や「書」の教養は衰退しまくっている。「キリストやグーテンベルクやベートーヴェンについてはそれなりの知識があっても、私たちが毎日使う日本語のなかに浸透している秦の始皇帝や王義之や顔真卿、小野道風や藤原行成についてはそれほどではない」というのでは困るのだ、という石川九楊の危機感が伝わってくる。

 私もそう思う。人は自らのアイデンティティに疑問を持った時、自らのルーツに遡る。BACK TO ROOTS。私も日々、様々な局面において書き付ける文字を、自覚的に丁寧に書くようにしようと思う。石川九楊に言わせれば、我々は「文字」を書いているのではなく、「筆蝕=書きぶり」を書いているのだが。

 これを我流に解釈すれば、我々は「文字」を書くのではなく、「文字」をラップするべきなのだ。「書」こそ東洋のヒップホップたりうる! と言えば、単なる勘違いですかね。それでも私は勘違いのまま、ひた走るのでした…。

 漢字というものは如何にして出来上がったのか、など、「書」について何も知らない人でも大いに楽しめること請け合い。お薦めです。

小川顕太郎 Original:2001-Dec-26;