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 Diary 2001・8月31日(FRI.)

人間の屑

 京都みなみ会館に『人間の屑』(中嶋竹彦監督・2000 年)を観に行く。これは町田康の同名小説を原作にした映画で、主演を村上淳が演じる。町田康といえば、現在の日本文学界で私が最も評価する作家で、かつ『人間の屑』はその町田康の最高傑作だと私が思っている小説。で、村上淳も、現在の日本映画界で私が最も注目している俳優だ。これは、観ずにはおれない映画ではないか! で、観たのだが…。

 ダメ! ダメダメダメ! ダメだー!!! 予想していたなかで、最悪の事態になっていた。小説『人間の屑』のいいところが、まったく無くなっている。それどころか、ほぼ対局にある作品に仕上がっているといえる。小説『人間の屑』を、太宰の『人間失格』のお笑い版程度に捉えているんじゃないか? 私に言わせれば、町田康の『人間の屑』の凄さ、というか面白さは、徹底して自己憐憫を欠いた語り口にある。ダメ人間である自分を、徹底して自己憐憫を欠いた語り口で描き、真のダメさを露出させている所が、凄いのだ。そこが面白いのだ。それは安易に読者が共感できない、共感したらそれだけでその人間はダメだと厳しく宣告する、共感する読者を鋭く批判する、小説なのだ。

 それでも勿論、そういう小説に共感する「ダメ人間」は居る。そしてそういう人間が作ったら、こういう映画になるのだろう。この映画の描く「ダメさ」は、観客に対して同情と共感を秘かに求める、中途半端な卑しい「ダメさ」なのだ。町田康の描く「屑=ジャンク=パンク」の凄みはどこにも見られない。真のパンクと、似非パンクの違いだ。私はこういうのには厳しい。その昔、『シド・アンド・ナンシー』というカス映画があったが、あれと同じだ。一切の共感を拒否する、どうしようもなくゴロっとした屑こそが、パンクの神髄だ。それがパンク(モダンのどんづまり)とヤンキー(未開部族の不良)の違いだ。町田康=町田町蔵は、真のパンクだったからこそ、『人間の屑』という真にパンクでジャンクな小説が書けたのだ。単なるヤンキーが、それを表面で真似すると、この映画のような体たらくになるのだ。恥をしれ。

 あああー! どうもパンクの話になると厳しくなるのは、お里が知れるようで嫌ですなー。

小川顕太郎 Original:2001-Aug-2;