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 Diary 2001・4月25日(WED.)

チャリティー?

 オパールにはよく、「障害者の人達が一所懸命に作ったタオルです。買ってください!!」と大声でわめきたてる(誇張ではなく、本当にわめきたてる)人々がやってくる。私は、こういった独善的・偽善的な輩は決然と撥ね除けることにしているのだが、今日はちょっと違ったタイプの人達がやってきて、少し動揺してしまった。

 本日やってきたのは、ウガンダに学校を建てたいと言ってコーヒー豆とハンカチを売っている日本人青年と黒人の合計 2 人。私は、自分がソウルミュージックを好きなせいか、黒人一般に漠然たる好感を持っている。もちろん、ソウルミュージックはアフロ・アメリカンの人達が作ったのであって、ウガンダの人達ではないが、それでも、である。また南北問題のことも頭に浮かび、我々の生活は南の国の人々を搾取することによって成り立っているという左翼的な考え(この考えには陥穽があるが、まだ考究しきっていない)に揺すぶられたりして、動揺したのだ。

 そもそも「漠然たる好感を持っている」からとか、自らに疚しいところがあるから、という理由でお金を出すのは、チャリティーの精神にもとる。チャリティーの精神は、その語源ともなったカリタス=隣人愛であって、これは相手のことが嫌いだろうが好きだろうが憎んでいようが軽蔑していようが何の関心もなかろうが、そんなこととは関係なく相手を愛せ、という命令=戒律である。まったく不合理な戒律だが、宗教の戒律の本質は不合理なものだし、それ故に私はこの戒律を尊重する。だから、私は「漠然たる好感を持っている」という理由でお金を出すことには積極的になれない。

 しかしながらそんなことよりも、やはり私は、チャリティーでお金を出してもらう=施してもらうという行為を、商品の売買という対等な関係に摺り替えようとする偽善に耐えられない。なぜこのような偽善的な行為がはびこっているのか。やはりそれはキリスト教の隣人愛の精神が衰退しているからではないだろうか。宗教的な精神は、もともとが不自然なまでに高邁なので、衰退すると簡単に偽善へと転化する。私はこういった偽善は、受けいれることができない。で、この人達にもそのまま帰ってもらった。

 あ、今日も暇でしたよ。って、別に書かなくてもいいですか。分かり切っているって? ははは、そうですか。そうですね。じゃ、また気が向いたら、オパールに来てください。コーヒー豆を売りに、じゃなくて、買いに。ではまた。

小川顕太郎 Original:2001-Apr-27;