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 Diary 2000・11月14日(TUE.)

恥の文化

 俗に、日本は恥の文化で西欧は罪の文化だと言われる。これはルース・ベネディクトが『菊と刀』の中で展開した論理で、それを受けた日本のインテリ達は、だから日本は恥の文化から罪の文化に移行しなければならない、というふうに言ってきた。日本人は自分の中に確乎とした信念がなく、世間体ばかりを気にしている、と。

 私も元来が個人主義的な人間なので、そのように考えていた。例えばある人がなんらかの事件を起こした時、その事件が自分の信念に対してどのようなものなのかを言わず、まず「世間を騒がせて申し訳ない」と謝ったりするのを、苦々しく思っていた。例えどんなに世間を騒がせようと、自分の信念に沿った事件であれば、謝ることはないではないか、と考えていた。

 しかし、疑問点もあった。罪の文化は、ユダヤ教やキリスト教、イスラム教などの唯一絶対神をもった所で産まれる、というのが定説だ。唯一絶対神と対話する事によって、罪の意識は育まれる。世間が何と言おうと、唯一絶対神の言うことに背く事は悪いことなのだ。これが「罪」だ。逆に、世間がなんと言おうと、唯一絶対神の御心にかなえばそれは良い事なのだ。だから、異教徒を弾圧・虐殺するのは良い事だ。そうやって異教徒同士で、血で血を洗う抗争を何百年も続けた結果うまれたのが、「個人」という概念だ。自分の核となる信念を守るためなら命をかける。つまり他人がそれを侵そうとすれば、そいつを殺すが、逆に自分で信念に悖る行為をしたならば、地獄に落ちなければならない。これが「個人」というものだ。

 なるほど。ここまでは分かる。そして日本のように唯一絶対神を持たない文化では、罪の文化にならないのも分かる。でも、それならば、口先で「恥の文化を捨てよ! 罪の文化に移行せよ! 要するに個人主義を確立せよ!!」と唱えたって、無理なんじゃないの? 唯一絶対神を信仰して、凄惨な宗教戦争を繰り返さなければ、ダメなんじゃないのか?

『内でも外でもバカばかり』(祥伝社)という本の中で、福田和也ははっきりこう言い切る。日本には罪の文化はない、故に日本には個人主義はない、だから人権もない、と。そして簡単に罪の文化に移行できるわけがない、だから個人主義も難しいし、人権も無意味だ、と。では、日本は絶望的なのか? そんな事はない。日本には立派な「恥の文化」がある。「恥の文化」は別に「罪の文化」に劣る訳ではない。世間に顔向けができない、親兄弟に恥ずかしい、知己の信義に悖る、という「恥」の感覚が日本人の道徳・倫理の根本なのだ。恥ずかしい事はすまい、恥をかいたら死んで恥を雪ぐ、というのが日本人の倫理の柱なのだ。だから我々日本人は、「恥を知る」事が最も大切な事なのだ、と。

 私はこの指摘に目から鱗が落ちた。正にその通りではないか。今の日本には、確乎とした罪の意識・信念を持つ事が出来ないくせに、恥を知ることを怠り、結局自分の権利という名の欲望を垂れ流し、叫ぶだけの、単なる恥知らずのバカ、が大量発生してしまった。恥をしれ! 恥を!

 といった話を帰り道の徒然にショウヘイくんにしていたら、ショウヘイくんが我が意を得たりといった顔をしてこう言った。「まったくその通りですね。ボクもオカザキ家の家名に泥を塗らないように心がけていますよ」。

 す、すごい。私はオガワ家の家名の事なんて考えたこともなかった。そんなもんどうでもいいと思っていた。ううむ、しかし、別に「家」に固執する事はないのだ。友人知己、我々の住むこの日本という「くに」、に対して悖ることがなければ。仲間を裏切らない、自分の「くに」を愛する、というのが、道徳の根本だろう。

 あああ、それにしても、最近は日記のネタがなくてもう大困りです。

小川顕太郎 Original:2000-Nov-9;