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 Diary 2000・3月16日(THU.)

地獄

 弥生座ナイトムービーで石井輝男の『地獄』を観る。前作の『ねじ式』は傑作だと思ったが、今回のは…はっきり言ってひどい。一言で言えば「俗情との結託」が強すぎる。この作品はポルノ映画として撮られたという事だが、もしかしたら「ポルノとは俗情と結託し、劣情を喚起せしめるものだ」という意識があったのかもしれないが、それにしては全く劣情も喚起されない。ただひたすら「俗情との結託」が前面に押し出され、不快さがつのるばかりだ。

 この映画は、主にオウム真理教の事が扱われているのだが、その描き方がひどい。とにかくオウムは極悪、まぬけ、不潔、不条理、醜い、馬鹿、という風に描かれているのだが、これは最悪の形の「俗情との結託」だ。こういう「俗情との結託」が何をもたらしたか。言うまでもなく、それは「破防法」であり、現在の高度管理・監視社会への傾斜だ。社会の常識に照らし合わせて「悪徳」とされることを、全て「悪の団体」あるいは「悪人」の側に押しつけて、自分達一般人はそれに脅かされている、という考え=俗情。こういった俗情は、結局全ての人は悪徳をまぬかれないものだから、全ての人を管理・監視する監獄社会を呼び寄せる。こういった単純な事実、戦後が半世紀以上かけて証明し続けた事実が、まだ分からないのだろうか。

 もちろん石井輝男もそこまで馬鹿ではなく、相対化らしきものも行われている。最後に丹波哲朗が演じる「忘八」が出てくる。「忘八」とは仁義礼智忠信孝悌という人間の持つべき八つの徳を全て失った者、つまり最大級の極悪人の事だが、こいつがさっきまでオウムの信者達を懲らしめていた地獄の鬼達を、バッサバッサと切り殺していくのだ。そして「生きるも地獄、死ぬも地獄。そう分かればどこでも一緒。まだ人を切り足りぬ。」とか言って現世に戻っていくのだ。これはある意味、それまで絶対の正義として君臨していた地獄の相対化だろう。つまりオウムの人達も、もっともっと極悪人であれば、救われたという訳だ。しかし、それにしてもこれだけでは相対化は弱いだろう。

 観客は結構入っていたのだが、場内には笑いがそこそこ沸き起こり、それなりにうけている様だった。それは露骨なまでの勧善懲悪と、クサイ演技、ちゃちなセットに依る所が大きいと思われる。私の後ろにも大学生らしき一団がおり、しきりに笑っていた。しかし、例えば裁判においてオウムの弁護にあたった弁護士の舌を、「極悪人の弁護をした」という理由でひっこぬくシーンがあるのだが、それで笑ってしまうというのは、批判精神に乏しい、もっとはっきり言ってしまえば、頭が弱いのではないか。何に笑い何に怒るか、という事で、その人がどんな人間であるかが分かる。私はこの映画では笑えなかった。

小川顕太郎 Original:2000-Mar-17;