京都三条 カフェ・オパール Cafe Opal:Home

HOME > diary > 00 > 0814
 Diary 2000・8月14日(MON.)

19歳の地図

 ビデオで『19 歳の地図』を観る。ご存じ中上健次の小説の映画化作品で、1979 年の作品。監督は『ゴッド・スピード・ユー! BLACK EMPEROR』の柳町光男。新聞配達をしながら予備校に通う少年の、世界に対する憎悪を描く。「世界に対する憎悪」といえば、ある意味で永遠不滅のテーマだと思うが、最近はどうなっているのだろうか?

 映画にしろ小説にしろ、最新作というものをあまりみない私は、最近の動向というものはよく分からないのだけれど、漏れ聞こえてくる情報を元に考えるに、「世界に対する憎悪」というものがあまり描かれなくなってきているのではないだろうか。

「世界に対する憎悪」が顕在化するのは一般的には犯罪においてだろうが、この犯罪の描き方が変化してきているように思える。『羊たちの沈黙』以来の快楽猟奇殺人、あるいは『ナチュラル・ボーン・キラーズ』以来の犯罪の理解不能性、というか「悪」というものの理解不能性・圧倒性、が全面に押し出されているように思える。日本においても、黒沢清が最近は一貫してそういった「悪」を描き続けているようだし、青山真治も同様の問題意識を黒沢清から受け継いでいる。私は未見だが、瀬々敬久の最新作『ヒステリック』もそういった犯罪を描いていたようだ。

 私もこういった悪の理解不能性・圧倒性を描いた作品というのは好きだが、それでは「世界に対する憎悪」はどこにいったんだ? という事にフト気付かされたのが、この『19 歳の地図』だった。「世界に対する憎悪」というものはどうしても、永山則夫の『無知の涙』ではないが、無知ゆえ・貧乏ゆえ・コンプレックスゆえ、等という原因に還元されがちである。つまりは社会が悪い、という図式である。

 勿論そういった側面があるのは事実だが、「世界に対する憎悪」の核心はそこにはない。例えどんなに社会が改良されようとも、「世界に対する憎悪」は残り続けるだろう。それが「世界に対する憎悪」の理解不能性・圧倒性であり、これは最近の流行の「悪」の理解不能性・圧倒性と通じるものである。つまりは最近は昔に較べて相対的に社会も豊かになり、「良く」なったので、犯罪を既製の図式に当てはめにくくなり、結果として「悪」の理解不能性が際だってきている、という事ではないだろうか。

 この『19 歳の地図』の主人公は、貧乏だし、冴えなくて女の子にももてないし、(多分)成績も悪いだろうし、田舎者ゆえのコンプレックスも持っている。しかし、そういった分かりやすい要因を全て取り払った所にある「世界に対する憎悪」が、しっかりと描かれている。こういうのを「リアリズム」というのではないか?

 今日はお盆でお勤めが休みというので、ワダくんが働きにきていた。おかげで酔っぱらったマツヤマさんにからまれたりして楽しく働けたようだ。それにしてもお盆というのは夜が暇なものですな。

小川顕太郎 Original:2000-Aug-9;