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 Diary 2000・4月19日(WED.)

俗にして醜の「専門人」

『発言者』の 5 月号が「俗にして醜の『専門人』」と銘打って、専門人批判の特集を組んでいる。その中で、福田和也の文章が良かった。

 福田によれば、最近の専門人=スペシャリストをジェネラリストより優位に置く風潮は、アメリカニズムだという。なぜなら、最近批判にさらされている日本型経営の特徴が、時間をかけて総合的視点を持てるジェネラリスト=キャリアを育てることだとしたら、アメリカ型経営の特徴はそれぞれの部門のエキスパートを組み合わせて行うものだと、大ざっぱには言えるからだ。

 日本経済の落ち込みと、官僚のキャリア組の不祥事の連発が、この風潮に拍車をかけている。しかし 80 年代は全く逆のことが言われていたのだ。何故このような逆転が起こったのだろうか。

 福田はそこに情報革命の影響を見る。個々の「専門家」が自らの技量を機能させていた領域が、ネットワークでつながったのが、大きい。これによって、例えば経営の「専門家」が、個々の業務に詳しくなくても、経営全般を判断できるようになったのだ。しかし、このネットワークでやりとりされるのは、数値化されたデータである。人間的コミュニケーションではない。故に、それぞれが相手の置かれた土壌を忖度し慮る感覚は生まれず、効率性のみが追求されることになる。留意しなければならないのは、こういった「専門」的なるものを軽々しく信じる輩の、対話すること、慮ること、考えることからの逃避である。

 といった内容である。これは私が普段からしているオタク批判にも、ストレートに繋がるだろう。対話すること、慮ること、考えることからの逃避。また、「専門」的なるものを軽々しく信じる風潮は、今の若者達の間に顕著であるように思われる。自分達の好きなもの、その好きなものが属する文化の全体的な展望に対する欲望が、とても希薄なように思えるのだ。別に統計とかをとったわけでもないので、印象に過ぎないのだが。今日は大雨だった。

小川顕太郎 Original:2000-Apr-21;