京都三条 カフェ・オパール Cafe Opal:Home

OPAL Dojo シゴキその 4 4月10日(TUE.)

ダニエル・キイス『アルジャーノンに花束を』を読み、論評せよ!

この課の目標

  1. 80 年代のマスト・アイテムを知る。
  2. 感情移入してみよう。

以下、オパール道場弟子オイシンの『アルジャーノンに花束を』に対する「論評」。


 やっとアルジャーノン書きあがったので送ります読んでみてもしひどかったら送り返してください、やり直します!(できればここがあかん! とか書いて欲しいです。)金閣寺についてももう一度やりますんで少々お待ちくださいませませ。ほいでわー。

「アルジャーノンに花束を」

 今回の道場の課題「感情移入してみよう」

 僕のような単細胞動物にはもってこいの一冊。金閣寺のようになんでそんなに歪んでるねん! と怒りたくなるようなこともなく、がんばれチャーリィ! と素直に応援しながら読めるお話。チャーリィは生まれつきの知能障害で助詞すらまともに使えない。例えば「僕は」を「ぼくわ」と書いてしまうくらいの知能しかなくって、読む側としても非常に辛いんだけれども、そのチャーリィが手術をすることによって段々賢くなっていく。それが文章に反映されていくので、読みやすくなってうれしいというのもあってともにチャーリィの進歩を喜んでしまう。

 チャーリィは賢くなって、自分に手術を施した人たちの頭脳をも凌駕してしまうのだけれども、人の感情を理解するのはやはり難しくて悩む。特に知能が右肩上がりで高くなっていく間は、なかなか思い通 りにいかないのだけれども、副作用で知能が落ちてきてから人の感情的な部分を解していくのはなんだか皮肉。しかし人間自分が優秀だと気付いた(勘違いした)瞬間他人とは相容れなくなってしまうものなのかもしれない。僕自身過去にそういう発言をしたことがあるし、今もどこかでしてると思う。これについては猛省するべし>自分。

 彼が自分の知能の低下を認識し、怯え、いらだち初めて人間的になれたし、その焦燥のなかで家族と再会したのは感動的でした。今まで自分を嫌悪していたとしか認識していなかった妹が、実は違ったということが分かったのは、人の行為を表層的にしかとらえていなかったのがちゃんと感情の部分まで踏み込んで分かるようになったということで、このシーンも僕には痛い。

 やはりオイシンという人間は人と感情において一線引いてしまっているのだと再認識させられるシーンでした。どうしても表層の行為に神経がいってしまっている。感動的であるとともに自己嫌悪を感じざるを得ないです、こういう思考回路をどうしたものか、今さらながら感性をもうちょっと豊かにしないとなあ。

 感情移入してみようというテーマだったのですが、どうも「自己反省をしてみよう」という感じに変わっちゃいました。テーマはすりかわってしまいましたが、これは本当に読んでよかったと思う一冊でした。


おまけ(けど長い)

 お話としてはとてもおもしろかったし、感動したのだけれども、OPAL 的にはこういう風にすっと読めてしまうものには疑問を抱くという傾向があるのでそれをちょっと真似してみる。

 チャーリィは基本的に人体実験をさせられたわけであり、最終的には手術前よりもプリミティブな状態の知能に逆戻りしてしまうわけだが、その過程において人間としてすばらしい経験をして、学者としても知能障害の人たちに貢献するという結果 を残していく、だからこの実験はある意味成功したと言えるのだけれども、だからといって人体実験がなんの議論もなく推奨されるようであってはいけないと思う。

 冷静に考えて、ハムスターの生きている時間は普通に生きていても 2 年程度であるので、せめてアルジャーノンが亡くなるまでは同様の手術をチャーリィに施すべきではなかったであろうと思う。

 実際僕がチャーリィの親であればもうちょっと慎重に手術についての態度を決めたと思う。

 僕個人の意見をいうのであれば慎重に慎重を重ねたテストにおいて信頼のできる結果 が出ているのであれば、こういった手術は行なわれるべきであると思うし、その上での結果 が悪いものであっても仕方がないと思っていますし、医療や科学の進歩については肯定的に考えています。しかし僕自身こういった問題に精通 しているわけでもなく、漠然とそう思っているだけなのでそれが正しいかということについて断言はできないといったところです。

 しかし世論がそういった部分に対しての議論がなされず、安易に人類に貢献したのでオッケーという風な話になってしまうと困っちゃうなあと思うのでそういう点においては意識的でなければいけないと思います。チャーリィが天才になって全ての知能障害者を救って大団円! という風な話にならなかったのは、作者が人体実験に対してちゃんと問題意識をもっているからだということだろうとは思うけれども、ややもすればどうとでもとれてしまうので結論は保留しておこうと思います。

 どなたかダニエルキースの真意についてご存知でしたらオイシンまでご一報ください。

オイシン

OPAL Dojo シゴキその 4 4月10日(TUE.)

小形剣之信道場主の講評

 相変わらず酷い。ほんとに酷い。まわりからも「酷すぎる! 読むに耐えない!」「もうやめたら?」といった声が続々と寄せられている。私も一度ならずもうやめようかと考えた。しかし、やはり続ける事にする。理由は次の三つ。

  1. いきなり良くはならないこと。オイシンが酷いのは最初から分かっていたはずだ。
  2. 皆勤を続けたり、服装や髪型を変えたりと、オイシンに向上心がみられること。
  3. 前回の「金閣寺」よりは、ほんの少しとはいえ、向上していること。これなら小学 2 年生の書いた読書感想文と言っても差し支えないだろう。

 というわけで、辛抱強く、講評に入る。

 まず、オイシンは何故このようなレビューを書かされているのか分かっているのだろうか。それは勿論、そのレビューをネタにオイシンをいじめるためだ。という一方の真実は置いておいて、それは「考える」という技術をオイシンに身につけて貰うためだ。オイシンは「考える」という事が全く出来ていない。と言えば、オイシンは「アホかもしれないが、ボクだってちゃんと考えてます!」と反論するだろう(心の中で)。それなら訊くが、オイシンはそもそも「考える」というのがどういう行為なのか「考え」た事があるか? あるまい。

「考える」というのは「論理的に物事を思いめぐらすこと」である。オイシンの決して出来ていないことだ。オイシンのやっているのは「頭の中で言葉を転がすこと」である。つまりオイシンの称する「デザイン」と一緒。なんだか漠然と頭に浮かんだイメージを、パソコンの画面 の上で適当にいじくって、「おっ、これいいじゃん」と思った所で完成とする、といったオイシンのやっている行為がとても「デザイン」とは呼べないのと同様、漠然と頭に浮かんだ言葉を適当に転がして、「おっ、これいいじゃん」と思った所で完成=結論とする、といった行為は「考える」とはとても呼べない。オイシンには「論理性」が欠けている。

 そういえば先日、オイシンの論理性のなさを指摘すると、「ボクの中では辻褄があってるんですけどね〜」と答えていたが、そんなもの自分が勝手に納得しているだけの話ではないか。論理性とは厳密な形式・法則の事である。論理的な思考とは、まず何らかの前提から出発し、矛盾を排しながら進んで、ある結論に達することである(これは演繹的な方法である。もちろん帰納的な方法もあるわけだが、ここでは省略する)。これは特殊な技術であり、訓練を積まなければなかなか身につかないものだろう。そして文章を書く、というのがこの訓練になるのだ。論理的な文章を書くことが。

 これはまた、ある人の書いた文章を読めば、その人が論理的に物事を考えることの出来る人かどうかという事が分かる、という事でもある。オイシンの文章は、語の意味にかなりのふらつきがあり、矛盾に満ちているので、全く論理的思考が出来ていないことが分かる。

 では、実例で示そう。

しかし人間自分が優秀だと気付いた(勘違いした)瞬間他人とは相容れなくなってしまうものなのかもしれない

 なんだこれは? なぜ「気付いた」と「勘違いした」が同じ意味で使われているんだ? これでは文章は意味をなさない。例えば、自分の事を優秀だと「勘違いした」人間が、他人と相容れなくなるのは当たり前ではないか。

 しかし本当に優秀な人間が、その事に「気付いた」としたらどうだろうか。これはなかなかに深い問題である。何故なら、人間の能力の優劣というものは厳然としてあるし、平等がよしとされ差別 はいけないとされる世の中であっても、最後まで強烈に残る不平等・差別のもとだからだ。チャーリーは「勘違いした」わけではなく、本当に優秀になったわけだし、本当に知恵遅れ状態になったわけだ。だからここからいくらでも問題は展開できたわけだが、オイシンは「勘違い」と「気付く」を同じ意味で使ってしまったがために、そういった問題を全て隠蔽し、自分も勘違いしてみんなに嫌われないようにしよう〜といった陳腐きわまりない結論を出すはめになってしまったのだ。「考える」ということをしないと、作品が訴えていることも明らかにならず、常に陳腐で俗悪な結論しか出てこない。

 オイシンの文章は全てこの調子である。全部指摘するのはあまりにも大変だから、あとは自分で考え直すこと。

 あと、作品を読んでどう思ったか・感じたかを大切にしろ、と私が言ったからだろうが、「痛かった」「辛い」などと感じたことを書いている。が、なぜそう感じたのかの説明がないので全く意味をなしていない。多分オイシンはチャーリーに感情移入していて、それでチャーリーが「痛い」目にあえば、自分も「痛い」と感じたのだろう。しかし、いうまでもなく、チャーリーとオイシンは全く別 の人間である。似ても似つかないといってもいいだろう。それが何故そもそも感情移入できたのか。そこには何らかのオイシン自身に呼応するものがあるはずなのだ。それを明らかにする事も、論理的な文章を書くことによってなされる。

 まずはこれらの事に留意し、「考え」ながら、慎重に文章を書くこと。以上。

小形剣之信

OPAL Dojo シゴキその 4 4月22日(SAT.)

師範代:馬場三蔵の講評

 今回の提出されたオイシンによる『アルジャーノンに花束を』レビューで評価できるのは 2 点。

  1. 読んでみてもしひどかったら送り返してください、やり直します!
  2. OPAL 的にはこういう風にすっと読めてしまうものには疑問を抱くという傾向があるのでそれをちょっと真似してみる。

 1 には、「ひょっとしたら、ひどいかも知れない」という認識があり、他の人が見たらどう思うか、というところに思いを向けている点において評価できる。大きな進歩である。しかし、充分他者の視点を導入することができず、「ま、とりあえず送っちゃえ!」と判断を放棄しているのは残念。

 2 は、OPAL 的なもの、道場的なもの、を修得しようとする意志が見受けられる点において評価できる。オイシンは、「OPAL 的」=「すっと読めてしまうものには疑問を抱く」と言っているが、一見常識であると思われるものに懐疑の眼を向けるという態度は「OPAL 的」であろうがなかろうが、オイシン(だけではないけれど)に欠けている資質と思われるので、とにかく何でもかんでも疑ってみることを心がけるべし。

 で、オイシンは、なんとなく本作の主題と思われる「知能と感情」の問題、「医療や科学の進歩」の否定的な側面、などに気がついているようだが、結局何が言いたいのかよくわからない。このあたりは、もっと整理する必要がある。

 整理するにあたって、今回オイシンに決定的に欠けていると思われるのは、「自分で調べる」という態度だ。

どなたかダニエルキースの真意についてご存知でしたらオイシンまでご一報ください。

…と呼びかけてしめくくっているが、自分で調べようとした形跡が見受けられない。文庫版には著者の「日本語版文庫への序文」が加えられており、また、本作は SF の名作とされているので、調べる気になりさえすれば参考になる資料を得ることは容易だろう。

 自分の考えをまとめるにあたって、色々材料を揃えることを怠り、しかし一方でなんとか「自分のオリジナリティあふれる見方」を提示しようとするから、ただ自分にひきよせるだけの論となり、「『自己反省をしてみよう』という感じに変わっちゃいました。」というオチになるである。

 これはデザインという作業でも同じで、似たような問題を他のデザイナーはいかに解決したか、をばできるだけ調べた後でなければ、オリジナリティあふれる結果は出せないのである。アレコレ思いつきをコネくりまわすのも、まとめる過程では必要だが、できる限り資料をあたる、という習慣は、「良いデザイナー」を目指す上でも不可欠なので、努力するように。以上。


おまけ:今回、読み返してみて

 さて、『アルジャーノンに花束を』であるが、この小説をつまらない、という人はほとんどいない。オイシンも楽しく読んだようだ。しかし、本当にそうか? と疑うべきである。読後、「あー、おもしろかった、泣いちゃった」と大いに感動したとしても「何が自分を感動させたのか? この感動は『本当』のものなのか? こんなんで感動してていいのか?」と疑うべきだと思う。

 文庫版「日本語版文庫への序文」では、日本の少女から、「自分は阿呆で、人に嘲笑されてきた。自分がチャーリー・ゴードンのような気がする」との手紙を受け取ったことが書かれている。それに対して D ・キイスは、「やあやあ、あなたが小説を自分に重ね合わせて読むことができたなら、あなたは深い洞察力と感受性をそなえているのですよ」と返事を出したそうだ。その論法でいえば、チャーリーに感情移入できたオイシンは「深い洞察力と感受性をそなえている」ということになる。良かったなあ、オイシン!

 しかし、それでいいのか? という疑問が生まれる。この作品には 80 年代的な思想がこめられている。すなわち科学の進歩即、人間の「幸福」に結びつくものではない、という思想だ。個人のレベルで言えば、知能が高くても「いい人間」とは限らない、むしろ、知能を高めることは、感情的な「良さ」を損なうことが多い、という経験主義的な認識だ。

 80 年代は核兵器による人類絶滅が現実の脅威となっていた時代で(今でもそうなんだが)、その原因を「科学の進歩」一般に求める方々が多くいらしたと思う。また、当時は欧米の経済がおちこんでいた時代で、「科学の進歩」を善とする西洋合理主義はゆきづまった、これからは東洋的な「和」こそ大事! とする方もいた。『アルジャーノンに花束を』も、そういう 80 年代的「科学批判」「合理主義批判」に荷担する役割を果たした、と言えるだろう。単純に感動していては、おもしろくないのである。

 この作品は「自分は阿呆やけども、思いやりの心を持っているから、阿呆でもいいや!」と人間の知的探求心や、向上心を否定し、頭のいいヤツにあやつられるがままの現状を肯定する物語だ。80 年代には通用しても、2000 年代に感動するには少々お人好し過ぎるのでは? と思う。

 チャーリーは、知能が退行する前に、頭が悪くなっていることに気がついたのなら、どんどんパンクな気分を育んで、とんでもない化学兵器を開発して、自分を馬鹿にしたヤツや、自分を実験材料にした医者どもを皆殺しにしておくべきだ、オレならそうする、とか、建設的な感想を述べるのが今日的な『アルジャーノン』の読み方である、と私は言いたい。でも、ついつい泣いちゃうんだけどね。

馬場三蔵

OPAL Dojo シゴキその 4 4月25日(TUE.)

浪人:おチェケ丸殿の講評

 この度の趣向は『アルジャーノン』を準えて、初めはバカバカしいことを書いておいてですね、中盤で素晴らしい展開になり、最後にはまたバカバカしいことを書いて終わるという気の利いたレビューなのだな、とか思って読み進めていけどもいけども最初から最後まで全くバカバカしい限り、これはもしや今までの「道場」の中で最悪の出来ではないのか、とまで思い至る。

 もしかするとボクが初めてオイシンに出会った昨年末以前に店主、トモコさん、BABA くん等の手により既に「手術」が施されていて、現在ボクが目撃しているのは彼の知能が減退していく様なのかもしれないな、と思ったり、このままでは近日中に元の木阿弥(ビジュアル系)に逆戻りも十分有りうると。

お話としてはとてもおもしろかったし、感動したのだけれども、OPAL 的にはこういう風にすっと読めてしまうものには疑問を抱くという傾向があるのでそれをちょっと真似してみる。
 チャーリィは基本的に人体実験をさせられたわけであり、最終的には手術前よりもプリミティブな状態の知能に逆戻りしてしまうわけだが、その過程において人間としてすばらしい経験をして、学者としても知能障害の人たちに貢献するという結果 を残していく、だからこの実験はある意味成功したと言えるのだけれども、だからといって人体実験がなんの議論もなく推奨されるようであってはいけないと思う。

 確かにそうでしょうな。そうでしょうとも。いやしかしやね。『アルジャーノン』からオイシンの書いているところの人体実験の行を取り去ってしまえば、その後には何にも残らんと思うんやけどね。2 年ばかし経ってやね、アルジャーノンが死んでやね、ああ実験は失敗みたいなんで人体実験は止めましょうと、そんな話誰が感動するねん。一体誰が誰に花束あげたらええねん。そんなん言うんやったら、動物実験の是非も問うた方がええんちゃうかな。いや、そんな是非も問わんでええよ。何も問わんでよろしい。ダニエル・キイスもそんなん言われるとは全く思ってへんかったやろね。オイシンはダニエル・キイスに手紙を書いて、びっくらさせてやね、「日本語版文庫への序文」に書いて貰ったらええ、「日本にはこんな読者がおります」ってね。

チャーリィが天才になって全ての知能障害者を救って大団円! という風な話にならなかったのは、作者が人体実験に対してちゃんと問題意識をもっているからだということだろうとは思うけれども、ややもすればどうとでもとれてしまうので結論は保留しておこうと思います。

 だからさあ「天才になって全ての知能障害者を救って大団円」では泣かれへんでしょうが、人体実験をしたり、動物実験をしたり、その全てが失敗するってのは、この『アルジャーノン』という物語を成立させる為には必要欠くべからざる部分やと思うねんけどね。問題意識の有無とはあんまし関係ないと思うで。まあ多分問題意識はあるやろうけど。

 ……。


おけけ(ちぢれてて短い)

 オイシンのレビューを読んで、即日に以上の所までの講評を書き上げました。しかし、ここまで書いてはみたものの、書けば書くほどにオイシンが何を言いたいのか、またボク自身がそのどこに難癖を付けたいのか、さっぱり分からなくなってしまったので、ここで絶筆。しばらく寝かせてはみたもののやっぱりよく分からんのです。オイシン手強し。

 どなたかオイシンの真意についてご存じでしたらおチェケ丸までご一報ください。

おチェケ丸

OPAL Dojo シゴキその 4 5月4日(THU.)

妹おたまの講評

 なぜあなたがこれほどまでに呑気でいられるのか、不思議を通り越して苛立ちすら感じます。

 あなたは、知能を失いつつあるチャーリイです。時間はないのです。あなたがデザイナーを名乗っていい期間は、もう 2 年をきりました。2 年が経ったらどうされるおつもりですか? その日の食事代を稼ぐくらいの才覚はおありでしょうね。それを盾に、また父や母をまるめこんで、なあなあにするおつもりですか。

 私達の両親の甘さは、子供達を論破してこなかったことです。私達が理屈をごねると、黙ってハイと言えんのか、と権威をふりかざして問題の解決をはかるのが常套手段でした。そこであなたが身につけられた知恵が、とにかく時間をかけて相手を疲弊させること。そして、人の言ったことをまともに聞かず、笑って相手の戦意をそぐことです。

 チャーリイは、元の天真爛漫な状態に戻ってこの作品は結末したのだとは、私は考えません。彼は学習しています。どこからそう読み取ったかというと、最後の「ついしん」の部分からです。

ひとにわらわせておけば友だちをつくるのはかんたんです

 私はこの一言に、末恐ろしさを感じました。チャーリイが最後に隠蔽し損ねた本音を拾った気がしたのです。

 チャーリイの経過報告が、彼の心の機微すべてを記したものと考えるのはあまりに人が好すぎるのではないでしょうか。あくまで、「報告」なのです。報告とは、人に読まれることが前提です。チャーリイには全編を通して、他者から存在を肯定されたいという無意識が存在します。チャーリイは「いい人」の体裁を保ったのです。あらゆる心理を記そうとすれば、飲酒した時に顕われたエゴイスティックな側面はもっと顕著なはずです。実際、最後まで書き続ければ、SVOC の乱れが起こったり、単語の羅列になるなど、文章が破綻するはずです。彼はそこで自ら筆を置いたのです。知能の低下は防ぎようがなかったにしても、それを受け入れるという意思表明をすることで、いい人であろうとし続けた。甘んじて受け入れたのです。最後の二行は感動を呼ぶでしょう。それを推測した上での狡猾な作戦です。ここで戻りましょう。なぜそこまでする必要があるのか。

 友だちがほしいからです。

 あなたに問います。オパールに何を求めておいでですか。友だちですか。ならば今のままでよろしい。作中、ウォレン養護学校の寮母が、手のかかる子供達こそ世話しがいがある、と語っているように、オパールに出入りする方々はアホなオイシンによくしてくれるでしょう。ですが、ここを道場と考えるのなら、もっと危機感を持つべきです。あなたが成長しなければ、道場は閉鎖されます。馬鹿には用はないのです。

 皆を飽きさせまいと、道化を演じても無駄です。あなたは見抜かれています。ここは実力社会なのです。期待されるのはひとえに結果であって、その場限りの笑いではありません。もちろん、皆は表面的には離れてはいかないでしょう。店に行けば笑顔で迎えてくれるでしょう。が、彼等は「こいつは何を言ったって無駄なんだよなあ。わかりやすいことを言ってやらなくちゃな」という気遣いをするはずです。

 この気遣いを諦めととりますか、それとも、やさしさととりますか。その答えが、この作品の解釈であり、あなたの生き方でもあります。


答えることについて

 あなたは課題に答えていません。あなたの書いたものは論評ではなく、紹介文です。あらすじはいりません。自分の言いたいことと照らし合わせ、最小限の引用にとどめましょう。また、何の為に書くのか認識しましょう。

 この課の目標は 2 つ。

1. 80 年代のマスト・アイテムを知る。

 なぜあなたは、80 年代ということに一言も触れないのでしょう。こう書かれていれば、まず 80 年代とはどういう時代かということに思いを巡らすのが常識ではありませんか。なぜ 80 年代のマスト・アイテムなのか、そもそも本当にそう言えるのかどうかも疑ってみる必要があります。不足する知識や、論を強める具体的な資料を得る為に、関連する書籍や新聞を調べる必要性もあるでしょう。

2. 感情移入してみよう。

感情移入してみようというテーマだったのですが、どうも「自己反省をしてみよう」という感じに変わっちゃいました。テーマはすりかわってしまいましたが、これは本当に読んでよかったと思う一冊でした。

 変わっちゃいました、は言い訳にすぎません。「クライアントさん、提示された条件とは違うデザインになっちゃいました。テーマはすりかわってしまいましたが、僕はとてもいいと思います。とてもいいから、まあいいじゃないですか」この発言が説得力を持たないのはおわかりでしょう。


おまけについて

 言いたいこともないのにむりに意見をこしらえることはありません。言葉は、必然的に選びだされてくるものなのです。


評価について

 あなたがとりうる行動で一番いけないのは、理由も述べずに突然姿を消すことですが、それを今のところしていないのは評価に値します。何だかんだ言われつつも課題を提出する姿勢は、あいかわらず素晴らしい。それによって何が問題なのかが明らかにされ、どうすればいいのかを考えることができるからです。しかし、わかって満足してしまってはいけません。行動を変え、問題を解決していかなければ意味がありません。自分に厳しくあって下さい。

 厳しいことを要求するのは、あなたがそれをやり遂げる力があると信じるからです。レベルを高く持ってもらいたいという切なる願いです。真剣勝負でおどけるな。こっちは本気なんだから、そっちも本気でかかってきてくれ。

おたま

OPAL Dojo シゴキその 4 5月13日(SAT.)

シゴキその4を終えて

 ああ、なんだか情けないことになってしまった。今回の講評では剣之信師匠も、三蔵師匠も実に優しい、これでは OPAL 道場というよりは OPAL 幼稚園になってしまっている。

 道場開設の辞にあった

そして私は冷酷無慈悲で容赦がない。誰がこの道に耐えられよう。

という言葉も僕の道化により曲がってしまった、これはあまりにも情けないことではないか。

 今までは道化てごまかそうと思ってきたわけだが、おたまの叱咤と、リアル OPAL 道場に毎日通ってやっと分かった。皆真剣だ、剣之信師匠にいたっては教育の本まで購入しているし、オチェケ丸殿も僕よりも先に本を読み終えている、これに報いないわけにはいかない。

 ここは戦いの場だ! ただしごかれることを目的とした道場通いを改め、師匠をなで斬りにするくらいの心意気で勝負に臨もう、実際の真剣と違って斬られても死にはしない。師匠に打ち勝つまで何度でも立ち上がり、志半ばにして逃げないことをここに誓う。ぬるい戦場などまっぴらごめんだ。

オイシン

OPAL Dojo シゴキその 4 5月15日(MON.)

「シゴキ4を終えて」への返事

 バカタレ。こういった無内容で自己満足な文章を「最低」の文章というのだ。かけ声だけで中身がともなっていない。大体、私はやる気がありますよ、私は真剣ですよ、と訴えただけの文章ほど、やる気が感じられず不真面目な文章はない。おチェケ丸殿も言っていたが、もし本当にやる気があるのなら、次の課題を同時に送ってくるか、今回の課題の書き直しを送ってくるべきだ。妹おたまも「期待されるのはひとえに結果」と言っていたではないか。誰もオイシンの「返事」など期待していない。ここは道場であって社交場ではない。

 馬場師範代に「みんなにここまで書いて貰っているのだから、なんらかの形で応えろ」と言われたので、このような猿のせんずりのような文章を書いたのだろうが、師範代の言っている事がさっぱり分かっていない。みんなのアドバイスに応えることと、「マスをかく」ことは全く違う。「俺は真剣にやるぜい!!」などと書くことは、単なるマスターベーションだ。黙って結果を示せ。以上。

小形剣之信