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OPAL Dojo シゴキその 3 3月14日(TUE.)

三島由紀夫『金閣寺』を読み、論評せよ!

この課の目標

  1. 日本文学の名作になれ親しむ。
  2. 読書する習慣を身につける。

以下、オパール道場弟子おいしんの『金閣寺』に対する「論評」。


「金閣寺」

 三島由紀夫の本を読むのは初めてのことで、僕のイメージの三島由紀夫は武人で、豪快という風に勝手に作り上げられちゃってたわけですが、文章の内容も表現法も非常に緻密で繊細。とても割腹自殺をしてみせるような人の文章とは思えですからねえ。

 どんな話かといえば、もともと内向的な性格でプラス吃りというエネルギーを外に発散できないタイプの主人公がさまざまな出来事によりさらに内向していく、そしてしまいにはその反動で金閣寺を燃やしてしまうという感じ。かなり端折って書いたので相当おおざっぱなあらすじですけど。

 ぼくはこの手の内向系のキャラクターは嫌いで、というのも僕も油断すると内にエネルギーをもっていっちゃうところがあるのでひとのそういう様をみるのが、気持ち悪く感じるのです。しかもまあ素晴らしく緻密な描写をしてくれてるので、僕の憂鬱度も抜群! 映像よりも文章の方が没頭度も高いからパゾリーニを観たあとよりも嫌な気分になってます。

 ちょうどニュースを付けながら本を読んでいたので、ふと思ったのはちょっと前に世間を騒がせた「春菜ちゃん殺人事件」に似てるなということです。若干スチュエーションに違いはあるものの 2 人とも孤独で、その破壊の対象物と常に向き合わざるを得ない状況に置かれていて、徐々にストレスを溜めていき最後はそのものを壊すための行動にでる。それが金閣寺を燃やすという行為であったり、相手の娘を殺すという行為だったりすると思うわけです。

 春菜ちゃんの一件の場合は本来春菜ちゃんの母親に向けていた憎しみが、直接ぶつけることができなくて逃げた結果春菜チャンにしわ寄せがいってしまったということで、ヘタレ感は否めないけども全体的な雰囲気は似ているという風に思えたわけです。やっぱり古今東西こういったストレスの爆発系の事件ってのはあるもんですな、そうなってくると社会よりも個人のパーソナリティの問題ちゃうか? なんて思ってしまうけど、そういう人でも普通に生活できるような社会環境っていうのを整備する事はやっぱり大切なことだな、アメリカとかでは公立のホームヘルパー組合なんかがあって安い値段で子育てを手伝ってくれる人を雇えるそうな。そういう仕組みが日本にはまだ備わっていないとのことなので、それはなんとかして欲しいものですね。はい、金閣寺とは全然関係なくなっちゃいました。

 すっかり話もそれてしまったところで、この小説の何がそれほど評価されるのかを考えてみると、やはりその文章の緻密さと繊細さなんだろうなあと思います。こういった心に闇を持った人々を描くにあたってはそれはとても有効に作用すると思うし、僕みたいな単純人間はしっかり自分の心の闇を意識しちゃったりすしますからねえ、まあ思うつぼといったところでしょうか。

 しかし最後、主人公が金閣寺を燃やすと決めてからの行動や、柏木との会話は気持ちよく読めました。「美が怨敵」と言い切ってしまうあたりはで憑き物が落ちたという感じで、おぉ! と感心しましたしね。終わり方もキレイで読み終わった時にはなんだか爽快感すら感じました。まあ前半くらーい気分になっていた反動っていうのも大きいのかもしれない。あんだけ人を暗い気分にしておいて最後何の解決も見なかったら、何のために我慢したと思っとんじゃぁぁぁぁ! と僕が炸裂してしまっていたことでしょう。ありがとう三島由紀夫!

 しかし読むととても疲れるのでもう何年かはこの本とは距離をおいていたいと思う次第です。

おいしん

OPAL Dojo シゴキその 3 3月21日(TUE.)

浪人:おチェケ丸殿の講評

ちょうどニュースを付けながら本を読んでいたので、ふと思ったのは ちょっと前に世間を騒がせた「春菜ちゃん殺人事件」に似てるなということです。若干スチュエーションに…

 おいおいおいおい、↑スチュエーションってなんやねん。スチェエーションって。旅客機でサービスしてくれる人のことかっ。って、そんなことを講評してもしゃあないですね。失礼しました。

 おいしんレビューのダメなところはこう。

  • 自分の理解できないモノは、特殊な人間・状況としてさっさと片付けてしまう。

  • (何故か)自分を多数派に属する人間だと思ってて、(何故か)そういう視点から世界を見ている。

 等々は剣之信殿が以前から度々指摘していたことではありますが、今回も同じご病気が猛威を振るっているようですな。自称体育会系のおいしんやからこうなるんか、どうなんか? 他に適当な体育会系の知り合いがおらんから、よお分からんねんけど、どういうこっちゃ、おいしんの脳。

ぼくはこの手の内向系のキャラクターは嫌いで、というのも僕も油断すると内にエネルギーをもっていっちゃうところがあるのでひとのそういう様をみるのが、気持ち悪く感じるのです。

 とかの行では、パッと見では如何にも自分の中にある特殊性に目を向けているんかともとれるんやけど、その後を読んでみると、『そうなってくると社会よりも個人のパーソナリティの問題ちゃうか?』と全くの他人事、おいしんが言うところの(自分自身の)「心の闇」には全く触れようともせず、『はい、金閣寺とは全然関係なくなっちゃいました』と自らも書いているように、挙げ句の果てには『アメリカとかでは公立のホームヘルパー組合なんかがあって安い値段で子育てを手伝ってくれる人を雇えるそうな』などと、『金閣寺』どころか「おいしん自身」にも全く関係のないことを書き出す始末。

 おいしんが『金閣寺』のレビューを書くと聞いて、いち早く再読・読了、準備万端整えておいたボク。おいしんはオパール改装で大活躍(?)したりとイロイロと忙しかったとは思うけど、それからどんだけの月日が流れていったのか、ここでおいしんみたいに再読してから論評を書くのも面倒臭いんで、時間がたってて若干思い違い/間違いがあるかもしれんけど、とかとか、中途半端な言い訳を書きつつ、お話はじめるニャン。以下、本文。

 最近「俺おいネット(「俺がおいしんだ」ネットの略)」でも少し話題にしてたんやけど、「美意識」の話ね。おいしんは「変な美意識は持たないようにしよう」とかなんとか書いてたけど、ボクが思うに「美意識」なんてもんは抑も「変」なもんなんよ。「金閣寺が美しい」なんて思い込むんはどう考えたっておかしいでしょう。実際行ってみたら分かるって。で、これは特殊な人間が持つ特殊な意識ではなくて、皆それぞれカタチは違えど持ってるもんやと思うねん。それがある人間と他の人間の差を作っていると言ってもいいぐらい。人は日々様々な情報の猛攻に晒されてて、それを判断しながら生きていってるワケやねんけど、その判断の基準となるものが大小イロイロありまして、その判断の基準をピラミッド構造に並べた時の一番上(中心)にあるモノ。ひとつの「軸」みたいなもん。それが「美意識」やと思うん。それは個人の生い立ちや生活環境なんかによって徐々に形成されていくんもんで、小さい頃にはあんまり確固としたものではなくて、成長につれ、知識や経験が蓄積されていって、それが体内で漠然としたカタチを成すという感じのもんかな。

 などなどから考えると「春菜ちゃん事件と雰囲気が似ている」なんてのは明らかにミスリーディングちゃうかなあ。あれは「美意識」とはあんまし関係ないと思うからね。でも、こういう「読み」も出来るかな。社会(世界)で生きていくということは日々ストレスの連続やねんね。で、食い物や空気やなんかもストレスの原因にはなってるねんけど、上で書いたように、「外部から入ってきた情報を逐次判断して、外部へ吐き出していく」ということが暮らしていくためには必須で、これが大きなストレスの原因になってると思う。「入力・判断・出力」、たとえば「会話」ね。誰かがボクに投げかけた言葉に対するボクの返答にも、この「美意識」の一端が関わってて、その「美意識」が確固としたものであればある程、より会話によるストレスを回避するパワーが強いと。だから、春菜ちゃん事件の犯人てのは「美意識」が弱かったんちゃうかな、と。単なるひとつの読み方やねんけどね。

 ということで、金閣寺てのは主人公が他(世界)を判断するための「軸=美意識」の象徴物やねんね。上で書いてきたように「判断の軸」を持ってるというのんは特殊なことでは全くなくて、この物語ではその「軸」が金閣寺やったと。その不動の軸を巡って主人公が変遷していく様を描いていくんやと思うねんけど、おいしんには「軸」はないんかいな。

 以下、デザイナーを自称するおいしんに向けてのデザインの話。共同体で信じられている「美」というものと「美意識」というものを混同して考えてしまってるんちゃうかな。「美」は教育によって刷り込まれていくもので、だからそこには規則めいたものがあり、「変」であったりなかったり「カッコ」良かったり悪かったり、するとは思う。「美意識」というものは、個人的なものであるから「変」であることは絶対ないんよ。デザインという仕事は、この共同体の「美」と個人の「美意識」をいかに摺り合わせていくかということやと思うねんけど、違うか?

おチェケ丸

OPAL Dojo シゴキその 3 3月22日(WED.)

小形剣之信道場主の講評

 オイシンが頭が悪いというのは分かっていたが、ここまで頭が悪いとは思っていなかった。「ここまで」とはどこまでか。それは「犯罪的にまで」頭が悪いという事だ。これは問題である。破門を申しつけようかと思ったが、ここまで「犯罪的」だとそれでは駄目だ。切腹を申しつける。オイシン、今すぐ腹を切れ。

 …ここで師範代・馬場三蔵が止めに入る…

 むうう、師範代がそこまで言うのなら仕方がない。もう一度だけチャンスをやろう。では、なぜオイシンの頭の悪さが犯罪的なのかを説明しよう。それは、オイシンは「粗雑なイメージによる思考」をしているからだ。こんなもの「思考」の名に値しないのだが、とりあえずそう呼んでおく。

 オイシンは、『金閣寺』と「春菜ちゃん殺人事件」を似ているという。しかしこの二つは似ても似つかない。全く異なるものだ。オイシンによると、この二つは「ストレスの爆発系の事件」という点で似ているという事になるのだそうだが、これこそが「粗雑なイメージによる思考」である。なるほど、「ストレスの爆発」などという粗雑な概念で括れば、この二つを同一の範疇に入れられるかもしれない。しかし、そういった粗雑な概念=イメージは、例えば「部落民」などという概念=イメージと同じである。それだけでは大ざっぱ過ぎて何を言ったことにも、説明した事にもならない。その語に貼り付けられたマイナスのイメージだけが立ち上がり、ただ差別的なだけだ。

 こういった「粗雑なイメージによる思考」は、あらゆる最悪の形の差別の根底に潜むものである。人種差別しかり、女性差別しかり、犯罪者差別しかり。「文学」とは、こういった「粗雑なイメージによる思考」を突き破るものだ。なぜ三島が、現実に起こった金閣寺放火事件を題材にして、ノンフィクションではなく、「文学」を書いたのか。無論様々な理由は考えられるが、「粗雑なイメージによる思考」を突き破ろうとしていたのは確かだろう。金閣寺放火事件に対する当時の世間一般の人達の反応が、どのようなものであったのかは知らないが、大体の想像はつく。「犯人は『変人』あるいは『キチガイ』だ」。要するに自分達の理解できないものに対してなされる典型的な「粗雑なイメージによる思考」が、行われたに違いないのだ。それを突き破るためにも、この作品は書かれたのだろう。金閣寺の放火という、一見すれば理解不能な事態、キチガイによる仕業としか思えない事件。その犯人の行為の「必然性」と「普遍性」を描くことに成功したが故に、この作品は名作として認められ、読み継がれてきたのだ。二度も読んだくせに、その事が全く分からず、最もしてはならない「粗雑なイメージによる思考」を繰り返すなど、頭が悪いにも程がある。そしてこの頭の悪さは、あらゆる最悪の形の差別を巻き起こすが故に、「犯罪的」なのだ。

 オイシンは頭は悪くても根はイイ奴と言われてきた。確かに根はイイ奴だろう。しかし、「頭は悪くても根はイイ奴」が起こす事件ほど質の悪いものはない。オイシンは自分自身が最低の差別主義者だという事をよく自覚せよ。そして、自分がどのような人間であるか、という事から目を逸らさない事。そこから全ては始まる。以上。

小形剣之信

OPAL Dojo シゴキその 3 3月23日(THU.)

妹おたまの講評

 おっさん(管理人注:「おいしん」のこと)は、『金閣寺』が嫌いなんや、というのが、レビュー読んでわかったことです。読みこむほどに、「もう俺、考えるのもイヤ」というオーラがただよってきます。春名ちゃん事件とか知ってる要素を捕まえて、しかもそれが含んでいる違う要素に話を持っていき、「はい、金閣寺とは全然関係なくなっちゃいました」と落として小さな笑いでごまかすテクニック、こなれてますね。「おぉ!/思っとんじゃぁぁぁぁ!/ありがとう三島由紀夫!」感嘆詞は内容の薄さから目をそらさせるいいアクセントですね。

 自分の闇を他者からみせつけられるのは不快なことです。でもそれをあえて見つめることで気付く事は多いのではないかしら? それとも暗部をこの公共の場でさらすのはリスクがおあり?

『金閣寺』と『春菜ちゃん事件』を結び付けるというのは、なかなか思い付かないことだとは思うのよ。ちょうどニュースをつけながら本を読んでいたのでなければおっさんも思い付かなかったでしょう。新しい視点ね。ちょっと個性的な視点ね。でもおっさんったら、発想に満足して、そこで思考停止しちゃって、同じことばっかで頭いっぱいになっちゃうのはどうかしら。

 こないだ『時計仕掛けのオレンジ』観た時も、「コロバ・ミルクバーの装飾がヒステリックグラマーの店のデザインと似ている!」って 1 日で 3 回ぐらい言ってたぞ? ちょっと目新しいことに気付いたからって悦に入らないでください。何も無い状態から新しい考えが生まれた瞬間ってのは、まるで自分が天才かのように思われるけど、それで満足しないで。新説打ち出すなら、ちゃんと論理的な裏付けをしてよ。でないと酔っぱらいの無責任トークと同等ですわよ。

 でもねえ、おっさんとしても、「わかってるよ、どうせしょぼいレビューさ」って、苦しく感じながらも出してると思うのよね。てことは、滅多斬り覚悟なわけやん? それでもやってるってのは偉いと思う。今はアホだアホだと言われてるけど、これを機会にどこがいけないかを自覚しよう、という意志を行動で見せてる態度は素敵。恥から賢くおなりなさいませ。

おたま

OPAL Dojo シゴキその 3 3月24日(FRI.)

師範代:馬場三蔵の講評

 師はんは、おいしん君を甘く見ていました。今回はできるだけわかりやすく書こうと思います。

『金閣寺』は文庫のかいせつや、道場主の話にもあるように、じっさいに起こった事件をもとにして三島由紀夫が書いた小説です。お話をふりかえってみましょう。

 父親から「金かく寺はきれいやで」と聞かされていた主人公がいました。しゃべるのが苦手な彼は、いつもさびしくなると「金かく寺」を思いえがいていました。彼はまいづるから金かく寺に修行に出かけます。いっしょうけんめい勉強して、住しょくに気にいられ、大谷大学に入学させてもらいます。ところが、歩くのが不自由な友だちとつきあっているうちに、学校をさぼるようになってしまいました。そんなおり、女の人と行為におよぼうとすると、決まって金かく寺があらわれ、これこれ、そんなことをしてはいけないよ、とさとしてくれるのでした。

 ある日、住しょくが祇園(ぎおん)で芸妓(げいこ)はんと遊んでいるところを目げきしてしまい、ついついきょう迫まがいのことをしてしまいます。それから借金をして旅行に行ったり、大学におさめるお金を使い込んだりして、住しょくから完全に見放されてしまいます。

 逆ぎれした主人公は、金かく寺をもやしてしまおう、と心に決めます。そうすると不思ぎなことに女の人と行為に及ぶことができるようになりました。めでたしめでたし。

 このように、お話だけを追っていては、どうということのない話です。

 さて、おいしん君は体育会系ですね。体育会系の人のとくちょうは、「なんでも話せばわかる」と考えているところでしょう。おいしん君は『金閣寺』の主人公がなぜ、さっさと住しょくさんに「ごめんなさい、これからは心をいれかえてしゅぎょうにはげみます」と言わないのかなあ? と不思議に思ったのではありませんか。なぜ、主人公があやまらなかったのか、考えてみましょう。(5 点)

 また「内向的」と決めつけてしまうのも良くないことです。つる川君という友だちも、明るいこだわらない性格に見えて、実は悩みがあったことを思い出しましょう。主人公のやったことの原因を主人公の性格だけに求めてしまっては、つまらないと思いませんか?(10 点)

 おいしん君は「春菜ちゃん殺人事件」とむすびつけて、社会のいろんな制度がはったつすれば、内向的な人も逆ぎれしないですむのに、と思っていますね。例えばおいしん君も、いっけん明るく素直な青年ですが、小さな出来事のつみかさねでつい金かく寺に放火してしまうかもしれません。おいしん君は逆ぎれしたことはないのでしょうか? 思い出してみましょう。(20 点)

 このようなことは、おいしん君が三次元的なものの見方ができないことと同じだと思います。床の一辺が 1 メートル、高さは 2m あるエレベーターに長さ 1. 5m の自転車が入らない、さて、どうすればいいでしょうか? 実際に自転車とエレベータで四苦八苦するのでなく、頭の中で、エレベータと自転車のイメージ(きおくやそうぞうにもとづいて思いうかべるものの形や印象)をもって考えてみましょう。頭の中でひっくりかえしたり、色々しているうちに、どうすればうまく収まるかがわかるはずです。(5 点)

 文学や小説の場合も同じですね。あらすじを追っているだけではダメです。すじを追うだけならシドニー・シェルダンの超訳『真夜中は別の顔』でも読んでいればよろしい(師はんは読んだことないですけど)。ここで、こんな話が出てくるけれど、全体との関わりの中で、なぜか? 全体を通じて作者が伝えたかったのは何か? ということを考えるくせをつけましょう。これで終わります。誤字・脱字に気をつけよう。

馬場三蔵